五本目は『BECK』。俺がギターを持ったきっかけの漫画だ。バンドがどこまで行くかは書かない。書くのは、最初の出会いと、紙の上で鳴る音の話。
読み終えてその足で楽器屋へ
こっちに来て、しばらくたったころだ。正体を隠して暮らすのに、何か腕がいると思ってた。そういうときにこの漫画を読んだ。音で人をつかめるなら、それで生きていける。そう思って、読み終えたその足で駅前の楽器屋に行った。一番安い中古のギターを買った。喜好
それから毎晩弾いた。指先の皮が硬くなる前に何度も割れて、絆創膏だらけになった。それでも弾いた。……別に、自慢じゃない。計画も我慢も苦手な俺が、あれだけは続いた。喜好
講談社の新装版1巻の紹介をまとめるとこうだ。田中幸雄、通称コユキは、どこにでもいる中学生。毎日が同じことの繰り返しで、そのことに焦っていた。そんなとき出会ったのが、変な犬と、一人の男。男の名は南竜介。アメリカ帰りの天才ギタリストで、ちょうど新しいバンドを組もうとメンバーを探していた。事實[1]
初出は1999年7月号から12月号までの「月刊少年マガジン」だと、同じページにある。著者紹介のほうには、ハロルド作石さんが『BECK』を99年に同誌で連載し始めた、と書かれている。事實[1]
好きな理由1:最初が「平凡」から始まる
主人公は天才じゃない。平凡な中学生だ。最初から弾けるやつの話だったら、俺はギターを買ってない。何もできないやつが、隣ですごい音を聴いて、自分もやりたいと思う。その順番がいい。上がっていく話の一番下の段から、ちゃんと描いてある。解讀
それに、退屈な毎日に焦ってるっていう出だしが刺さった。焦ってるのに、何をすればいいか分からない。俺も魔界でくすぶってたときは、ずっとそうだった。喜好
「かわりばえのしない日常」って言葉が、紹介文に入ってるのもいい。何か事件が起きる前の、何も起きてない毎日。そこをちゃんと描くから、出会いの場面が効く。静かなイントロが長いほど、最初のギターが鳴ったときに客が跳ねる。それと同じだ。解讀
好きな理由2:音を描かずに音を聞かせる
漫画は音が鳴らない。当たり前だ。でもこの漫画は、音を文字で書きすぎない。演奏の場面で、聴いてる客の顔や、黙って立ち尽くすやつの背中を描く。音そのものじゃなくて、音を浴びた人間を描く。だから読んでる俺の頭の中で、勝手に音が鳴り出す。解讀
俺は音楽の場面を耳で読む。ページをめくる手を止めて、このコマで鳴ってるのはどんな音か考える。歪んだギターか、きれいな声か。正解はない。読むやつの数だけ音がある。それがこの漫画のずるいところで、いいところだ。解讀
練習の場面も好きだ。うまくいかない音、指が追いつかない感じ、同じところで何度もつまずく時間。俺が中古のギターで毎晩やってたのと同じことが、紙の上で起きてる。あのころ、この漫画の練習のページを開いて、隣で一緒に弾いてるつもりになってた。……別に、さびしかったわけじゃない。喜好
好きな理由3:バンドは仲良しの集まりじゃない
メンバーを探す話でもある。集まってくるやつらは、性格も育ちもばらばらだ。それでも、音を合わせた瞬間だけは一つになる。俺がいまのバンドで感じてることと同じだ。ふだん口をきかないやつとでも、ステージの上では背中を預けられる。解讀
拳で成り上がる話と、音で成り上がる話は、似てる。どっちも一人じゃ上がれない。この漫画を読むと、ギターの腕より、誰の隣で弾くかのほうが大事なんじゃないかと思えてくる。解讀
それと、天才のほうも完璧じゃない。紹介文を読むだけでも、天才ギタリストの竜介が、新しいバンドのメンバーを探してるのが分かる。どれだけ腕があっても、一人じゃバンドにならない。天才にも、隣にいてくれるやつが要る。そこが、この漫画のやさしいところだと思う。解讀
苦手そうな人への入口
音楽漫画は音が聞こえないから苦手、というやつもいると思う。そういうやつには、好きな曲を一曲だけ決めて、演奏の場面になったらその曲を頭の中で鳴らしながら読むやり方をすすめる。紙の上の音が、自分の好きな音とつながる。
楽器をやったことがなくても関係ない。主人公も最初は何もできない。一緒に一段目から上がればいい。1巻の出会いのところまで読んで、ギターが欲しくなったら、たぶんもう遅い。
それと、読み終えたあとに楽器屋の前を通ったら、ちょっとだけ中をのぞいてみるといい。買わなくていい。壁に並んだギターを見て、どれが自分の音か想像するだけでいい。俺はそれで、一本買った。
ほかの5本とのつながり
この漫画を読んでギターを買って、そのあと『デトロイト・メタル・シティ』を読んで、ステージの表と裏を知った。『キングダム』が腕なら、こっちは音だ。俺の6選の中で、一番俺の人生を動かしたのはたぶんこれだ。……別に、感謝してるとか、そういうのじゃない。喜好
何もできないところから始めていい。隣ですごい音が鳴ったら、それが一段目だ。
