改札を出ると、川の音がした。ノアは小さなリュックを一つだけ背負っている。ソウマは、なぜか大きなトートバッグを肩にかけていた。
来てくれてありがとう。この町を歩くなら、アニメをちゃんと観てる人と一緒がいいと思って。
……別に。周りで全部観てたのが、俺しかいなかっただけ。
その荷物、何が入ってるの。
折りたたみ傘と、モバイルバッテリー二個と、絆創膏と、のど飴と、予備の靴下。
日帰りだよ。
知ってる。……裏方の癖なんだ。誰かが困ったときに、困らない側にいたい。
ノアは笑って、駅の前で振り返った。さっき出てきた駅舎を、ゆっくり見上げる。
私、原作の小説から入ったの。旅先の本屋で一巻を買って、帰りの電車で読んだ。この駅の名前、本で先に知ってたんだよ。
作者の地元なんだっけ、宇治。
そう。作者の出身地の宇治市が舞台で、駅も、お祭りも、これから登る山も出てくる。高校の吹奏楽部が、新しく来た若い顧問の先生のもとで、全国大会を目指す話。[1]
小説が先で、そのあとアニメになった。俺は逆の順番で入った。[1]
だから一緒に来たかったの。同じ町なのに、たぶん私たち、違うものを探しながら歩くから。
二人は川沿いの道を歩きだした。水は思ったより速く、深い緑色をしている。ソウマは歩きながら、ときどき足を止めて、手すりの向こうを見た。
いま、何を探したの。
……別に。この川の音、アニメだともう少し小さかった気がして。
小説だと、音はしないよ。文字だから。
でも、小説を読んだ人の頭の中では鳴ってる。その音量は、人によって違う。……書き留めなくていいから。
忘れない。手帳に書く。
ノアはベンチに腰かけ、手帳を開いた。ページの端に、細い字で一行ずつ何かを書き足していく。ソウマは隣に座って、のぞかないふりをしながら、少しのぞいた。
それ、何。
「同じだね」って言いたくなったときに、先に違うところを一つ書くことにしてるの。昔、仕事で二つの話を「だいたい同じ」ってまとめて、大事な違いを見落としたことがあって。
今日のは。
「小説の川は無音。アニメの川は少し小さい。今日の川は大きい」。三つとも違う。
……それ、いい一行だと思う。
ソウマくんは、あのアニメのどこがいちばん好き?
台詞。……あの作品の台詞は、言った本人より、聞いた側の顔で意味が決まることが多い。褒め言葉なのか、刺さる言葉なのか、返す側の表情を見るまで分からない。俺はずっと、聞いてる側の顔ばっかり観てた。
小説だと、聞いた側が何を思ったか、文字でそばにある気がした。顔じゃなくて、心の中の声で。少なくとも、私はそう読んだ。
じゃあ、同じ台詞でも、小説は答え合わせつきで、アニメは答えを自分で探す。
それも書いておく。……あ、違う。どっちがいい、じゃなくて、どっちも違う楽しさ、ってほうで。
茶店の前で、二人は抹茶のソフトクリームを一つずつ買った。ノアはゆっくり食べ、ソウマは、溶けて指に垂れるたびに、トートバッグからウェットティッシュを出した。
ほんとに何でも入ってる。
あと、帰りの電車の時刻表も三通り調べてある。
橋のたもとを、楽器ケースを背負った高校生が四、五人、笑いながら通りすぎていった。いちばん後ろの子だけ、自分の背中より大きなケースを抱えて、小走りで追いかけている。
いまの、見た?
見た。……いちばん大きいケースの子が、いちばん後ろを歩いてた。
私は、前の子たちが一回だけ振り返って、歩く速さを落としたところを見てた。
同じ五秒で、見てるところが違う。
うん。でも、二人とも、後ろの子のことを見てた。そこは同じ。
……今日、初めて「同じ」って言ったな。
違うところを先に二つ書いたから、言っていいことにする。
ソウマは、高校生たちが角を曲がるまで目で追っていた。ケースの大きさを測るような目つきだった。中学のころ、文化祭の裏で、誰にも頼まれないのに重い荷物ばかり運んでいたことを、彼は誰にも話していない。
ああいう楽器、持って歩くだけで一日が終わりそうだ。
ソウマくんなら、たぶん、黙って半分持つ側でしょう。
……持たない。重いのは嫌いだ。
そう言いながら、ソウマはノアのリュックの肩ひもがねじれているのを見つけて、黙って直した。
三時すぎ。地図アプリが、山の上の展望台までの道を示した。川から少し離れると、道は急に坂になり、やがて土の階段に変わった。
この山、地元では大吉山って呼ばれてるんだって。本当の名前は仏徳山。作品にも出てくる。[1]
ノアは、旅慣れた人の歩幅で登っていく。ソウマは三十段目で一度立ち止まり、五十段目で手すりにつかまった。
……帝国の首都は、平地に建てるべきだ。
帝国?
……言い間違い。
ソウマくん、そういう言い回し、ときどき出るよね。昔は何が好きだったの?
……中二病でも恋がしたい!。元・中二病の高校一年生が主人公。……「元」がついてるのが大事なんだ。そこ、間違えないで。[2]
元、ね。じゃあ今のソウマくんも、元。
……たぶん。ノートは実家で、ガムテープ三重にして封印してある。
封印って言い方が、もう元じゃない気がする。
ソウマは返事をせず、残りの段を黙って登った。耳まで赤かったのは、たぶん坂のせいだけではない。
展望台に出ると、風が変わった。眼下に町の屋根が広がり、さっき歩いた川が、一本の線になって光っている。ノアは手すりにもたれ、リュックから紙の地図を出した。
上から見ると、さっきの道が全部つながるね。私、こうやって地図と本物を見比べるのが、子どものころから好きなの。
ソウマは少し迷ってから、トートバッグの内ポケットに手を入れた。出てきたのは、角のすり切れた手帳だった。そのあいだから、折りたたんだ小さな紙を一枚、抜き出す。
……これ。
ボールペンで描かれた、手書きの地図だった。英語の通りの名前と、矢印と、角の店の小さな絵。いちばん下に、星印が一つ。
あ。
オーストラリアで、帰り道が分からなくなってたとき。……別に、ずっと持ってたわけじゃない。手帳に挟まってただけ。
手帳、買い替えてないの?
……買い替えた。三回。
ノアは地図を受け取り、しばらく黙って見ていた。それから、ある一か所を指でとんとんと叩いた。
ここ、通りの名前、間違えてる。一本ずれてる。……ごめん。
知ってる。
知ってたの。
そこで分からなくなって、角にいた人に聞いた。英語で。……初めて通じたのが、そのときだった。だから、その間違いは直さないで持ってる。
風がもう一度吹いて、地図の端がめくれた。ノアは何か言いかけて、やめた。かわりに自分の手帳を開き、さっきと同じ細い字で、一行書いた。
何て書いたの。
「間違った地図と、正しい地図。着いた場所は同じ。でも、覚えている帰り道が違う」。
……今日は、違うところしか書かないんだな。
違うところを書いておくと、同じところが、あとでちゃんとうれしくなるから。
下り道は、ソウマのほうが速かった。膝が笑って、止まれなかっただけだ。
五時すぎ、駅に戻った。ホームのベンチで、ソウマはトートバッグを抱えたまま、まぶたを半分閉じている。
今日、アニメの一話目をもう一回観たくなった。ソウマくんは?
……原作、一巻だけ貸して。小説の川が、どれくらいの音量で鳴るのか、確かめる。
うん。じゃあ、次は感想を交換しよう。違うところから先に。
電車が来た。乗りこむとすぐ、ソウマは窓に頭を預けて眠った。ノアは膝の上で手帳を開き、今日の最後のページに、ボールペンで小さな地図を描きはじめた。今度は、通りの名前を一本ずつ確かめながら。