朝の九時四十分。館林の駅前で、ハルは手帳を広げていた。見開き二ページに、行きたい場所が十四か所。矢印と時刻がびっしり書きこまれ、右下には赤いペンで「全部回る!」とある。
改札を出てきたナギは、手帳をのぞきこんで、それから肩の水筒をかけ直した。
おはよう! ナギ、今日、どれくらい残ってる?
おはよう。うーん……三か所ぶんくらい。
三! 十四のうちの三!
そのかわり、三か所は全部ちゃんと見る。
ハルは手帳を見下ろして、三秒黙った。それから赤いペンのふたを外して、「全部回る!」の横に小さく「(ナギは三)」と書き足した。
じゃあ、残りの十一か所は、僕が歩きながら説明する。
説明はしなくていいよ。歩きながら、ハルが好きなところだけ教えて。
好きなところだけだと、全部になる。
じゃあ、いちばん好きなところだけ。
駅前のロータリーを抜けると、土曜の朝の町は静かだった。ハルは三歩ごとに振り返って、ナギがついてきているかを確かめた。
ここが、宇宙よりも遠い場所の舞台なんだよね。
そう。主人公のキマリは、群馬に住んでる高校二年生。それで、この町は「訪れてみたいアニメ聖地」の八十八か所にも選ばれてるんだ。[1]
八十八。お遍路みたい。
全部回ったら、何か起きるかな。
足が痛くなると思う。
キマリはこのあと、同じ学校の子と出会って、いっしょに南極を目指すことになるんだ。その子は、南極に自分で行くって決めてる。[1]
群馬から、南極。
遠いよね。タイトルどおり。
それに、主人公の四人が、この町のアニメアンバサダーになってるんだって。[1]
町の顔になってるんだ。……ちょっと照れそう。
一か所目は、手帳の一番目に書いてあった場所だった。ハルは写真を十四枚撮り、ナギは一枚だけ撮った。
一枚でいいの?
一枚目が好きだったから。
じゃあ、ナギも一枚入ってよ。キマリたちみたいに、四人並んで——
二人しかいないよ。
……二人で、四人ぶんの幅をあけて立つ。
それ、あとで見たら、ただ間があいてる写真だよ。
結局、撮ったのは、道に並んだ二人の影だった。影のあいだは、ちゃんと二人ぶんあいていた。ハルはその一枚を、今日いちばん長く見ていた。
二か所目へ向かう途中、ハルは、通りがかりのコンビニの前で足を止めた。看板をしばらく見上げてから、また歩き出す。
いまの、何?
僕、三宅日向がいちばん好きなんだ。キマリがバイトを始めたコンビニで働いてた子。キマリと同い年なんだけど、高校をやめて働いてる。[1]
南極を目指す仲間に加わるんだよ。大学は目指す、でもそれより先に、何か大きいことをやりとげたいって。[1]
コンビニを見ると、その子を思い出すんだ。
うん。明るいんだけど、明るさの奥に、何か置いてる感じがする。そこが好き。
ハルが好きになる人って、だいたい、最初から主人公じゃない人だよね。
……そうかも。物語を前に進めるのって、主人公だけじゃないから。
僕、いちばん好きなのは、一話のはじめのほうで、キマリが学校をずる休みして、一人旅に出ようとするところなんだ。[1]
旅に出るところが好きなの、ハルっぽい。
それがさ、出ないんだよ。怖くなって、途中であきらめて、学校に戻ってきちゃう。[1]
あ、戻っちゃうんだ。
そう。最初に観たとき、僕、そこで一回止めたんだ。画面に向かって「行けよ!」って言っちゃって。でも何回も観てるうちに、戻ってくるところが好きになった。一回戻った人が、次にどうするかの話なんだと思う。
私は、戻ってきたところで、もう好き。
え、そこで?
うん。怖いって分かったまま、ちゃんと学校には行ったんでしょ。私、そっちのほうがえらいと思う日もある。
ハルは何か言いかけて、口を閉じた。前向きにまとめそうになったときの、いつもの顔だった。
……今の、僕だったら「次はがんばれた」で締めてた。
締めなくていいよ。
締めないと、落ち着かないんだよ。
落ち着かないままでも、お昼は来るよ。
十二時すぎ。三か所目のベンチで、ナギがリュックから包みを出した。アルミホイルのおにぎりが四つ。
二つずつね。鮭と、昆布。
え、作ってきたの?
朝、時間があったから。……ちょっと、塩が多いかも。
ハルはひと口かじって、そのまま動かなくなった。
しょっぱかった?
しょっぱい。しょっぱいけど、そうじゃなくて。
僕、こういうのに弱いんだよ。誰かが朝のうちに、お弁当を用意してくれてた、っていう場面。戦うところより、そっちで泣くんだ。
ここ、場面じゃなくて現実だよ。
現実だから、余計にだよ。
ナギは水筒のほうじ茶を、ふたのコップに注いでハルに渡した。ハルは二つ目のおにぎりを、一つ目よりゆっくり食べた。
そういえば、ゆるキャン△とこの作品、一緒になったことがあるんだって。
え、ほんと?
そらキャン△っていうコラボ。コミケの出版社のブースで、グッズが出たって。[1]
そらキャン! 名前がもう、いい。南極とキャンプ。
たき火、南極でやったら怒られそう。
寒いのには強そうだけどね、どっちのチームも。
私は、寒い日は寝袋から出ないチームに入る。
三か所目のベンチを立つとき、ハルはもう一度聞いた。
ナギ、あと何か所いけそう?
……あと一か所なら、行けるかも。
ほんとに? 無理してない?
無理してたら、ここで「帰る」って言ってる。
四か所目は、ハルの手帳では十一番目に書いてあった、大きな沼のほとりの遊歩道だった。ナギが「ここ」と指さしたのは、景色ではなく、ベンチだった。二人はそこで、何もしないで三十分座っていた。ハルは途中で二回、手帳を開きかけて、二回とも閉じた。
……ナギ、何もしないとき、何考えてるの?
いまは、おにぎりの塩、次はどれくらいにしようかなって。
次も作ってくれるの?
次の旅があればね。
ある。絶対ある。……あ、いや、ナギに残ってる日に。
うん。それなら、ある。
四時半。ハルは手帳の最後のページを開いた。そこには「帰り道」という欄がある。前にゲンに「帰ってくるまでが冒険だぞ」と言われてから、旅の計画には必ずこの欄を作っている。
帰りの電車、四時五十二分。そろそろ駅に戻ろう。
ナギはスマートフォンで時刻を調べて、首をかしげた。
ハル、次の電車、五時五十二分みたい。
え。
ハルは手帳と、ナギの画面を見比べた。手帳には、くっきりと「16:52」と書いてある。
……一時間、まちがえてた。よりによって、帰り道の欄で。
帰り道の欄で。
ゲンさんに見せられない。
じゃあ、この一時間は、なんにもしない時間ね。
二人は駅前まで戻って、ベンチに並んで座った。ナギは水筒に残ったほうじ茶を、半分ずつ分けた。日が傾いて、ロータリーに並んだタクシーの屋根が、順番に橙色になっていく。
駅前の通りの向こうで、小さな店がシャッターを半分だけ上げた。店先に、段ボールの箱に入った野菜が並びはじめる。夕方から開く八百屋らしかった。
あ。ああいう店、好きなんだ。夕方だけ開く店。
手帳に書く?
書かない。覚えて帰る。帰り道で見つけたものは、書かないで覚えておくことにしてるんだ。
じゃあ、私も覚えておく。白菜が、ひと玉だけ立ててあった。
そこ?
そこ。
……十四か所のうち、四か所。
三か所の予定が、四か所。
あ、そっちから数えるんだ。
うん。私は今日、一個多く行けた。
ハルは手帳の「全部回る!」の文字を、しばらく眺めていた。それから、その下に一行書いた。
なんて書いたの?
「四か所。残りの十か所は、また来る理由」。
いいね。それ、締めてないもんね。
……締めてない?
続いてる。
五時五十二分の電車は、時刻どおりに来た。座ったとたん、ナギは眠った。ハルは手帳を開いて、帰り道の欄の「16:52」を二重線で消し、「17:52」と書き直した。その横に、小さく書き足した。「一時間、得した」。