昼の試合は、雨で流れた。傘をたたんで店に入ってきたカオルとゲンは、肩から下がほとんど濡れていた。窓ぎわの席では、ガクがノートを広げていた。ページの真ん中に横線が一本、その上下に細かい字がびっしり並んでいる。
あれ、ガクさん。昼間にお会いするの、なんだか新鮮ですね。
カオルさん。それにゲンさんも。お二人とも、ずいぶん濡れましたね。どうぞ、ここ空いてます。
試合が流れちまってよ。駅でも迷って、カオルに拾ってもらった。ガクは何してんだ、その長い線。
年表です。いま、ジャンヌ・ダルクを書いていて。
ジャンヌ! 知ってる知ってる。旗持って馬に乗ってる姉ちゃんだろ。
その人です。でも僕が好きなのは、馬に乗る前なんです。村の女の子が親戚に頼んで近くの町まで連れていってもらって、守備隊の隊長に「王太子のいる城へ行かせてほしい」と頼む。そして、相手にされずに帰される。[1]
1428年、ヴォクルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールを訪ねた。
門前払いや。
はい。でも年が明けると、もう一回行くんです。そのころには、彼女の話を信じる男が二人、味方についていました。[1]
二人の名はジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジ。二度目の訪問は1429年1月。
その二人、ええなあ。うち、投げる人より、最初に球を受けてくれた人のほうが気になってまうねん。
待て待て、その前にだ。そもそもその子は何者なんだ。
フランスの東のほう、ドンレミという小さな村の、農家の娘です。十五世紀のはじめごろの生まれ。まだ子どものころに聖人たちの姿を見て、声を聞いたと、のちに本人が話しています。その姿が消えたあと、泣いたそうです。[1]
生まれは1412年ごろとされる。初めて声を聞いたのは12〜13歳ごろだと、本人が証言している。
泣いたのか。……そういう子が、戦に行くのか。
これは僕の勝手な読みなんですけど、アニメの「選ばれた主人公」と少し違うのは、誰も迎えに来ないところなんです。呼ばれた、と本人は信じている。でも城までの段取りは、全部自分でつけた。一話目で門番に追い返される主人公が、次の回でまた門の前に立っている。あの感じです。
ゲンがドリンクバーから、コーラとホットのお茶を一つずつ持って戻ってきた。お茶のほうをカオルの前に置いて、自分はコーラを半分まで一気に飲んだ。
二度目でようやく許しが出て、彼女は城へ向かいます。途中は敵の土地を通るので、男の服を着て。着いてから王太子と人を払って話をして、王太子は強い印象を受けたと伝わっています。[1]
城はシノン。王太子シャルルは、のちのシャルル7世。
王太子ってのは、王様じゃねぇのか。
そこが話のややこしいところで。当時のフランスは、国の中が王太子を推す一派とブルゴーニュ公の一派に割れていて、そこへイングランドの王が条約を盾に「フランスの王位もうちが継ぐ」と――[1]
分からん!
おう、それなら分かる。網元の跡取りが、港を取られてて船を出せねぇようなもんか。
彼女はそのあと、イングランド軍に囲まれていたオルレアンという町へ送られます。でも着いてみると、古株の指揮官たちは、彼女を作戦会議に入れようとしない。[1]
オルレアンに着いたのは1429年4月29日。
そのとき、その子はいくつだ。
十六、七歳です。[2]
十七! 高校生じゃねぇか。
十七のころの私は、自分のことで精一杯やったなあ。
スポーツアニメで言うと、強いチームに入ったばかりの一年生が、ミーティングの部屋に入れてもらえず廊下で待たされる。でも試合が始まると、いちばん前にいる。僕の頭の中では、そういう絵になっています。
廊下で待たされる一年生な。そういう子ほど、あとで化けるんよね。
戦場では、旗を持って立っていました。首と肩のあたりに矢を受けたのに、戻ってきて最後の攻めに加わった。それを見た兵士たちの目が変わった、と言われています。[1]
矢を受けて、戻ってくるのか……。船でも、時化の夜にいちばん先に甲板へ出るやつに、みんなついていくんだよな。
そこから勝ちが続いて、さっきの冠の町で、王太子は王になります。冠をかぶれなかった跡取りを、そこまで連れていったのが彼女でした。[1]
ガクはそこで、ノートの横線を指でなぞるのをやめた。カオルが、グラスを持ちかけた手を止めた。
ここから先は、少し重いです。次の年の春、ある町を助けに出た戦いで、彼女は敵方に捕まります。そのあと、イングランドが身代金を払って、彼女の身柄を手に入れる。[1]
町はコンピエーニュ。捕らえられたのは1430年5月23日。
捕まっているあいだに、塔から飛び降りて逃げようとしたこともあります。[1]
無茶すんなよ……。
でも、逃げようとした気持ちは、ちょっと分かる。じっと待たされるのが、いちばんしんどいから。
僕もここは、英雄の話というより、閉じこめられた十代の一人の話として読んでいます。塔の窓から見えた景色を、つい想像してしまう。
おう。短くな。
そこで、意地の悪い問いを出されるんです。「自分が神の恵みを受けていると分かっているか」。はいと答えれば、それだけで異端にされる。いいえと答えれば、自分の罪を認めたことになる。[1]
振ってもアウト、見逃してもアウトの球や。……なんて返したん。
受けていないなら、神がそこへ置いてくださるように。受けているなら、そのままでいられるように。そう答えて、問いを出した側が言葉を失った、という証言が残っています。[1]
うまいこと返したなあ。二十歳にもならん子が。
窓の外で、雨の音が少し強くなった。誰もしばらく、何も言わなかった。ゲンが、空になったグラスをテーブルにそっと置いた。
……そうか。
話には続きがあります。二十五年ほどたって、裁判のやり直しが開かれる。願い出た一人が、彼女のお母さんでした。やり直しの裁判は、前の裁判をまちがいだったとして、判決を取り消します。[1]
復権裁判の判決は1456年7月7日。
おふくろさんが、か……。
ゲンは窓のほうへ顔を向けて、しばらく黙っていた。
はい、ティッシュ。……今日の話でいちばん大事なとこ、私、ここやと思う。最初に信じた二人と、最後まで信じたお母さん。始まりと終わりに、受ける人がおってん。
受ける人、か。……僕の年表には、戦いと裁判の名前しか書いてなかった。
そういえば、彼女は字を習っていなくて、手紙は全部、人に書き取ってもらっていたそうです。[1]
ほな、書き取った人も受ける人や。
しかしよ、俺がジャンヌって名前を最初に覚えたのは、船の上の少女漫画だぞ。
種村有菜の漫画。『りぼん』で1998年から2000年まで連載された。テレビアニメの制作は東映アニメーション。
ゲンさんが少女漫画。……いや、似合うわ。泣いてそう。
泣いた。
僕のノートには、『Fate/Apocrypha』も書いてあります。こっちのジャンヌは「ルーラー」として呼び出される。英雄たちの戦いの、審判役なんです。[5]
原作は東出祐一郎とTYPE-MOONの小説。テレビアニメの制作はA-1 Pictures。
審判! 裁かれた人が、今度は審判で呼ばれるんや。作った人、そこ分かってて置いたんやろな。知らんけど。
僕もそう読みたいです。ほかにもこの人を元にした作品は、小説、映画、芝居、歌、ゲーム、漫画と、いまも増え続けていて。作品の外でも、ずっとあとの大きな戦争では、敵どうしの両方の側が彼女を旗印に使っていて、そうなると象徴という仕組みの話に……ごめん、またやった。[1]
はっはっは! 年表がテーブルからはみ出すぞ。
窓の外が明るくなった。雨は小降りになっていた。
よっしゃ、やんだ。試合はもう無理だけどよ、どっかで球だけ打って帰るか。
ええな、それ。ガクさんも、よかったらご一緒に。
行きます。……カオルさん、打ち方は三行でお願いします。