加太港の待合で、レンは方眼ノートを開いていた。手には、今朝並んで受け取った乗船の整理券がある。友ヶ島へ渡る船は、前の日には予約できない。当日、港で整理券を受け取る決まりだ。
前の晩、二人のバンドは大阪でライブをした。打ち上げの帰り道、レンが「明日は友ヶ島に行く」と誰にともなく言った。ジンが振り向いた。「要塞の島だろ。俺も行く」。二人がライブの外で同じ予定を立てたのは、たぶん初めてだった。
始発の船が出た。ジンは来なかった。レンは桟橋の端まで行って、船が見えなくなるまで見送り、待合に戻った。ノートの今日の欄に、出発時刻を一つ書き足して、線で消した。
次の船の時刻が近づいたころ。港へ続く道を、黒い上着が全力で走ってきた。加太駅から港までは八百メートルほどある。ジンは待合の入口で膝に手をつき、肩で息をした。
……目覚まし、三つかけた。三つとも、俺より先に寝やがった。
おはよう。整理券、受け取ってきなよ。次の船、まだ間に合うから。
……お前、なんで乗ってねえんだよ。先に行けばよかっただろ。
二人で渡るって、昨日言ったから。
ジンは少し黙った。それから、真顔になった。
……それは契約だろ。守られたら、こっちも守るしかねえ。次は俺が先に並ぶ。……別に、礼を言ってるわけじゃねえからな。
友ヶ島へ渡るフェリーは、この一航路だけだ。三月から十二月までは通常運航で、水曜日は運休になる。祝日や繁忙期は出る。荒れた日は全便が欠航する。レンはそれを三回確かめてから、日曜を選んでいた。
船が港を離れた。二人は甲板の手すりに並んで立ち、何も話さなかった。レンは海を、ジンは空を見ていた。島までは二十分ほどだった。
島が近づくと、レンがノートを閉じた。説明を始めるときの癖だった。
2022年4月〜9月放送、全25話
主人公の慎平は十七歳。中学を卒業して東京に出ていたけど、幼なじみの潮の葬儀のために、二年ぶりに故郷の日都ヶ島へ帰ってくる。もとは方言で話していたのに、東京の暮らしで標準語になってる。[1]
日都ヶ島のモデルが、いまから降りる友ヶ島。本物は無人島なんだ。もし人が暮らす島だったらどんな島だったか、と想像をふくらませて舞台を作ったとされてる。作中では人口七百人くらいの島で、集落はこの加太の町と、香川の男木島がもとになってる。[1]
で。
……で?
お前は、その話の何が好きなんだよ。設定は分かった。お前の顔が分かんねえ。
レンは口を開けて、閉じた。前にも、同じところで止まったことがある。仕組みを話すと、面白さを伝えた気になってしまう。そう言われたのは、たしか別の旅でだった。
……二年ぶりに帰ってきた島が、知ってるはずなのに、少しだけ違って見える感じ。その少しの違いを、主人公と一緒に探すのが好きなんだと思う。たぶん。
最初からそう言え。
船を降りると、島の道は思っていたより広かった。この島には明治時代、陸軍が砲台を築いている。外国の艦隊を大阪湾に入れないためだ。遊歩道に道幅の広い場所が目立つのも、もとは砲台へ向かう軍用の道として切り開かれたからだそうだ。
要塞の島。悪くねえ。……ついて来れんのか?
ジンは坂を大股で登りはじめ、五歩目で石の段差につまずいた。レンは何も言わずに、ジンが体勢を立て直すのを待った。ジンは「……別に」とだけ言った。
第3砲台の跡では、木々の間に暗い通路が口を開けていた。友ヶ島は戦後、島全体が国立公園になった。終戦のときに爆破された第2砲台を別にすれば、軍の施設の跡はわりあい傷まずに残っているのだという。
このあたりの砲台は、一度も使われないまま終戦を迎えたんだって。第二次世界大戦は、空の戦いが中心になったから。[3]
一発も撃たねえで、終わったのか。……撃たなかったから、残ってんだな。
通路の奥に、上へ続く階段があった。手前に柵が立っている。ジンがその柵に手をかけ、片足を乗せた。
ジン、そこは通れない。古い階段で、安全のために柵で閉じてあるんだ。[3]
……登れるぞ、これくらい。
登れるのは知ってる。ライブで機材の上に乗るのも見てる。でもここは、来た人がみんな同じように柵の手前で止まってるから、これだけ残ってる。一人が越えたら、次の人も越える。撮るのも、柵の手前から。
ジンは足を下ろした。柵から手を離して、上着のポケットに突っこんだ。
……別に。登りたかったわけじゃねえ。上から来る景色を、見てみたかっただけだ。
通路は、声がよく響いた。レンが何気なく手を一度打つと、音が壁を伝って、少し遅れて返ってきた。もう一度。今度は二拍。返ってくる。レンは数えるように、短いリズムを打った。
通路の反対側で、ジンが手を打った。レンのリズムの、裏に。響きが重なって、通路の奥で一つの音になった。レンは手を止めずに、少しだけ速くした。ジンもついてきた。ついてきて、最後の一拍だけ、わざと先に打った。
遅えんだよ、ベース。
走ってるのはギターのほう。……でも、今の終わり方はよかった。次の練習で、試していい?
……勝手にしろ。
島の西の端には、明治の初めに建てられた灯台がある。日本の標準時の子午線、東経百三十五度の線は、いまの測り方だとその西の広場を通っていて、それを示す標識が立っているのだと、レンは来る前に調べていた。
作中では、この島の地名がそのまま使われていて、「虎島」も出てくる。[1]
本物の虎島は、渡るための堤防が崩れていて、陸から行くのは難しいんだって。[3]
行けねえ島が、話の中には出てくるのか。いいじゃねえか。
海の向こうに、淡路島が見えた。友ヶ島は、紀伊半島と淡路島のあいだの海峡をふさぐように浮かんでいる。ジンはしばらく黙って、それを見ていた。
帰りの船を待つあいだ、レンはノートを開いた。今日の欄に、表を作りかけて、やめた。代わりに一行だけ書いた。島に、音の返る場所がある。答えの欄は空けておいた。
加太の港に戻ると、日が傾いていた。この町の淡嶋神社は、島の一つの神島が発祥の地とされているのだと、レンは言いかけて、やめた。今日はもう、設定の話は十分だった。
おい。……観てやる。その、二年ぶりに帰ってくる話。
うん。何も言わないでおく。最初は、知らないまま観たほうが面白いから。
当たり前だ。言ったら、お前の機材の上に乗る。
次の練習の日、曲の終わりで、ジンは最後の一音だけ、わざと先に鳴らした。レンは何も言わずに、その裏を弾いた。砲台跡で鳴らしたリズムだと、二人とも口にしなかった。帰りぎわ、ジンが「……観たぞ」とだけ言った。