一時四十分。両毛線の電車が岩舟駅に着いて、扉が開いた。降りたのは二人だけだった。同じ車両の、いちばん離れた二つの扉から。
スイはホームに立って、少し先にいる青年を見た。黒い上着、肩から斜めにかけた鞄、伏せた目。青年もこちらを見て、すぐに目をそらした。
……スイさん。ノアさんの。
二人は同時に携帯電話を出して、同時に画面を見せ合った。ノアから届いたメッセージは、一字一句同じだった。「岩舟駅の写真を一枚、撮ってきてくれない? 私はいま、行けない場所にいるから」。
……はめられた。
はめられた、とは思わないな。たぶん、私たちが二人とも、一人では来ない人だって知ってたんだと思う。
聖地巡礼、行かない派?
行かない派。好きな場面は、家の座椅子で、何度も止めて観たいから。
俺も。人が多いところが無理。……ここは、少なくて助かった。
小さな駅だった。駅員さんのいない駅で、改札の横に、乗った駅を証明する紙を出す機械が置いてある。駅前は静かで、土曜の午後の日差しが舗道に斜めに落ちていた。
開業は明治二十二年。……さっき、ホームの案内で見たわけじゃない。来る前に調べた。[2]
行かない派なのに、調べてきたんだ。
……行かない派は、行くと決めたら、調べすぎる。
映画のポスターにも使われてる、この駅。秒速5センチメートルの第1話「桜花抄」の舞台なの。[1]
東京の小学校で仲がよかった二人が、卒業で離ればなれになって。女の子のほうが栃木へ転校して、男の子が会いに行く。その待ち合わせが、この駅。[1]
ここに決めたのは、実際に来てみた雰囲気だって、監督は話してる。考えてたのは北関東で、大人にはたいした距離じゃないけど、中学生がひとりで行くには遠いところ。[1]
……大人には、たいした距離じゃない。
うん。今日、私たちは乗り換え一回で来た。
十三歳の一回と、二十歳の一回は、同じ一回じゃない。……今のは忘れて。
忘れない。今日いちばん、あの映画の感想に近かった。
ソウマは返事をしないで、駅舎のほうへ向き直った。ホームの向こうを、上りの電車がゆっくり出ていくところだった。
作中で走ってる電車は、115系っていう車両の、湘南色なんだって。[1]
……車両の名前まで調べてくる人は、たぶん駅の名前も一生忘れない。
ノアに頼まれた写真を撮ろうとして、スイはカメラを構えたまま止まった。改札の前を、買い物袋を提げた人が二人、学生が一人、順に通っていく。
人が通るあいだは、待とうか。この駅、ふだん使ってる人の駅だから。
……改札の前に立たないで、こっちの端から。顔が入らない角度なら、たぶん大丈夫。
二人は駅舎の端に寄って、人が途切れるのを三分待った。撮れた写真は一枚だけ。誰もいない駅舎と、斜めの日差し。スイはそれを、何も足さずにノアへ送った。
写真を送ってしまうと、用事は終わった。帰りの電車までは一時間以上ある。駅の近くに岩船山という山の登山口があると、ソウマが地図アプリを見せた。駅のまわりには、高勝寺というお寺もあるらしい。
登る?
……登り口まで。
十五分ほど歩いて、登り口の石段の前に着いた。ソウマは一段目に片足をのせ、上を見上げ、そのまま足を下ろした。
妹なら、今ごろもう上にいる。
妹さん、走る人?
走る人。俺はベンチで、走る人の地図を描く人。子どものころから。
うちには、走らない猫がいる。私が本を読んでると、膝の上で一緒にページをのぞく。今日も、帰ったらたぶん玄関で怒ってる。
怒る猫。
置いていかれるのが嫌いなの。……ほんとうは、置いていくほうも少しさびしいんだけど、それは猫には言わない。
石段の脇に、落ち葉が吹きだまっていた。二人は登らないまま、五分だけそこに立って、山の上から下りてくる風を受けた。それから、来た道を駅へ戻った。
駅前のベンチに並んで座ると、ソウマが鞄から缶コーヒーを二本出した。一本をスイの横に置く。
ありがとう。……ソウマさんは、あの映画、どこが好き?
短いところ。俺、二時間の映画は途中で一回止める。あれは六十三分で、三つの短い話に分かれてる。止めなくても、最後まで息が続く。[1]
……あと、言葉。言葉が、相手に届くまでの距離の話だと思った。
私は二周目で、言えなかった言葉ばかり見てしまった。一周目は、二人がまた会えるかどうかしか見てなかったから。
言えなかったのは、誰の言葉。
それは、二周目を観た人どうしで話す数。
……ずるい答え方。
うん。私はずるい答え方を、ときどき選ぶ。
ソウマは缶を開けて、一口飲んだ。それから、空を見たまま言った。
主題歌、山崎まさよしの「One more time, One more chance」。高校のころ、そればっかり聴いてた。[1]
好きな人がいたの?
いない。……いない、ってことになってる。
じゃあ、私もそう受け取っておく。
……ノアさんは、なんで俺たちを組ませたんだろう。
私はこう受け取った。行かない派どうしなら、急がないで同じ場所に長くいられるから。
急がない、か。昔、知らない国で道に迷ったとき、あの人だけ急がなかった。
そう。ノアさんは、急がない人の顔をして、ちゃんと先に地図を描いてる人だから。
……それ、本人に言わないで。調子に乗る。
四時を過ぎると、駅前の影が長くなった。スイは鞄から、ここへ来る途中の駅で買った絵葉書を二枚出した。一枚をソウマに渡す。
ノアさんに、写真のほかに一枚ずつ書かない? 写真は今日届いて、葉書は何日かあとに届く。
……遅れて届く言葉。この駅らしい。
スイはすぐに書き終えた。三行。ソウマは長いこと、ペンを持ったまま動かなかった。やがて一行だけ書いて、裏返して、鞄の内ポケットにしまった。
出さないの?
……出さない。出すと、終わる気がする。
そう。私は、出しても終わらない手紙もあると思うけど。……でも、それはソウマさんが決めること。
帰りの電車が来る五分前。駅前のポストの前で、ソウマは一度立ち止まった。スイは先にホームへ上がり、振り返らなかった。だから、彼がポストの口に手をかけたかどうかを、スイは知らない。
電車が動き出してから、ソウマが小さく言った。
……二時間なら止めてた。今日は、止めなかった。
うん。私も、今日は一回も止めなかった。
四日後、ノアから二人に同じ写真が届いた。机の上に、絵葉書が二枚並んでいる。三行のものと、一行のもの。一行のほうに何が書いてあったのかを、ノアは誰にも言わなかった。