沼津駅の改札を出たところで、色とりどりの紙が一枚、ルカーノの胸の前に差し出された。カノンの次のライブの衣装のデザイン画だった。水色、青、緑、白、桃色、黄色、紫、銀、それからなぜか茶色。
海の色です! 海にある色を、ぜんぶ入れました!
おお! まず、この線の勢いがいい。カノンちゃんの絵は、いつも前に走ってる。……で、茶色は何かな。
砂浜です。
なるほど、砂浜。……よし、今日の宿題を決めよう。日が沈むまでに、この中から海の色を一つだけ選ぶ。本物の海を見てからね。
カノンはルカーノのアトリエで、針の持ち方から教わっている。ルカーノはカノンのセンスを一度も否定しない。教えるのは、いつも引き算だけだった。
沼津は、『ラブライブ!サンシャイン!!』の町だ。カノンがいちばん好きなアニメの一つでもある。主人公たちの出身地として、この作品が選んだのが静岡県沼津市だった。
物語の学校は、沼津の内浦にあるんです。生徒が百人もいない小さな女子校で、来年の入学希望者はゼロ。このままだとなくなっちゃうかもしれない、ってところから始まります。[1]
それで、学校を盛り上げようとして、生徒が九人、スクールアイドルを始めるんです。[1]
九人。……だから色が九つ?
あっ。……ちがいます、偶然です。たぶん。
沼津の市内のあちこちに、作中のグループのメンバーを描いたマンホールのふたが置かれている。カノンは場所を調べてきていて、その一つの前で急に立ち止まり、足もとを指さした。
これ、インターネットで資金を集めて作ったふたなんです。市内の何か所かに置かれてて。[1]
ルカーノは大きな体を折って、しゃがみこもうとした。その後ろから、ベビーカーを押した女の人が来るのが見えた。カノンがルカーノの肘をつついた。
ルカーノさん、いったん端に。ここ、みんなが歩く道なので。
Scusi. 失礼。……カノンちゃんは、こういうところがちゃんとしてるね。
ライブハウスの前でも、並ぶときは道をふさがないように、って先に教わったので。
ベビーカーが通りすぎるのを待ってから、二人は立ったまま一枚だけ写真を撮った。しゃがむのはやめておいた。
沼津港で遅めの昼ごはんを食べた。ルカーノは店の人の前掛けの色をほめ、カノンは定食のごはんを二回おかわりして、今月の残りのお金を指で数えた。それから二人は港の脇から海岸に出た。千本浜。松林と防潮堤の向こうに、駿河湾が広がっていた。
さあ、宿題の時間だ。海は何色に見える?
えっと……青と、緑と、白と、銀と……やっぱり、ぜんぶです。
うん、正直でいい。じゃあ質問を変えよう。カノンちゃんは、あのアニメのどこが好き?
まだ何者でもない女の子たちが、自分の町の景色の中で練習するところです。砂浜で振りを合わせて、うまくいかなくて、また合わせる。キラキラは最初からあるんじゃなくて、合わせた回数の先に出てくるんだって思えるので。
あと、最初に「やりたい」って言い出す子がいて、その「やりたい」が一人ずつに伝わっていくところ。私は一人で始めたので、そこを観ると、いつも背筋が伸びます。
グループ名は、水の「Aqua」に「ours」をくっつけた言葉なんだってね。来る前に、ちょっとだけ調べたんだ。[1]
私たちの、水。……ルカーノさん、調べてくるんですね。
衣装を作る人は、着る人の好きなものを知らないとね。
私、初めて一人で大きな街に出た日に、偶然、小さなライブを観たんです。舞台の女の子と客席が、同じ顔で笑ってて。帰ってすぐ、スクールアイドルのアニメを順番に全部観ました。これは、夜明けまで観てた一本です。
夜明けまで。それは、いい出会い方だ。僕も絵の具の匂いのする部屋で、そういう夜を何回かやった。
あの子たちを観てると、何もない場所からでも始められるんだって思えるんです。私の舞台も、ライブハウスのいちばん小さいところからなので。
小さい舞台のほうが、衣装の縫い目までお客さんに見える。だから僕は、小さい舞台の服ほど手を抜かない。
カノンは砂浜に降りて、ステップを一つ踏んでみせた。二歩目で砂に足を取られて、尻もちをついた。
今のはリハーサル!
立ち上がって砂を払っていると、少し離れたところから、小学生くらいの女の子がこちらを見ていた。そばには父親らしい人がいる。女の子は、カノンの二つに結んだ長い髪を見上げて、思いきったように「アイドルのひと?」と聞いた。
えっ、アイドル? ……い、いかにも、わらわは……じゃなくて、はい! まだ、すごく小さい舞台ですけど。
女の子の父親が小さく会釈した。カノンは砂のついた手を背中に回すと、まっすぐに立って、深く礼をした。さっきの尻もちが嘘のような、きれいな礼だった。女の子は目を丸くして、同じように頭を下げた。
親子が松林のほうへ帰っていくと、ルカーノがスケッチブックを開いた。
わかった。カノンちゃんの衣装に足りなかったのは、色じゃない。今の礼が見える余白だ。
余白……?
色を九つ着ると、目は色を追いかける。色を一つにすると、目は着ている人を見る。カノンちゃんのいちばんきれいなところは、立ち姿と礼だからね。それを隠す服は、僕は作りたくない。
……ルカーノさんの「やりたい」は、何だったんですか。最初の。
ルカーノは鉛筆を止めて、しばらく海のほうを見ていた。
……絵、かな。昔の話だよ。……ま、それでもいいさ。いまは、服がいちばん楽しい。
日が傾いて、海の色がゆっくり変わりはじめた。青が深くなり、波の縁だけが白く光った。カノンは長いこと黙って、それを見ていた。
決めました。この色です。今の、日が沈む前の、いちばん深い青。
Perfetto. じゃあ、もう一つだけ足していい。何にする?
白い線を一本。波の縁の、あの光ってるところ。……それは、自分で縫いたいです。
まっすぐ一本なら、カノンちゃんの手でも縫える。曲がったら、それは波だと言い張ろう。
言い張ります!
家に帰ると、カノンは九色のデザイン画を折りたたんで、机の引き出しにしまった。捨てなかった。ルカーノがスケッチブックから破いて渡してくれた一枚は、壁に貼った。深い青のドレスに、白い線が一本。その線の横に、ルカーノの字で小さく「ここに礼」と書いてあった。その下で、カノンは端切れに白い糸をまっすぐ一本縫う練習をはじめた。