唐津駅の改札を出たところで、レイは足もとに光るものを見つけた。銀色のスパンコールが一枚。少し先にもう一枚。その先に、もう一枚。たどっていくと、駅前に立ったカノンの背中に行き着いた。肩から提げた大きな鞄の口から、衣装の袖が少しはみ出していた。
カノンさん。落ちてる。三枚。
えっ。……あっ、ほんとだ! ゆうべ、ちょっとだけ足したの。ほんのちょっと。五十枚くらい。
何で付けた。
……のり。
レイは何も言わずに、拾った三枚をハンカチに包んだ。この衣装は、レイが三週間かけて型紙から直したものだった。カノンが次のライブで着る。今日はその前に、どうしても一度、ここで袖を通したいと言われていた。
だから私も、ここで一曲だけ! ほら、スピーカーも持ってきた。小さいやつ。
カノンが鞄から手のひらほどのスピーカーを出した。レイはそれを見て、駅前を行き来する人を見て、もう一度スピーカーを見た。
待って。それは無理。駅前で音を出して歌うなら、たぶん許可がいる。それに、ここは電車に乗る人の通り道。カノンさんが立ったら、誰かが遠回りする。
……よかろう、聞き入れて……じゃなくて、そうだよね。アニメの中のことと、現実の駅前は違うもんね。
カノンはスピーカーを鞄に戻した。戻す手が、少しだけゆっくりだった。レイは鞄のほうへ手を出した。
それ、今日は私が持つ。……代わりの場所は、あとで探す。
二人は駅前を離れて、洋館のモデルになった建物のほうへ歩いた。作品の中でさくらたちが暮らす洋館は、唐津市内の町田川の近くにある、という設定だ。モデルになったのは、旧三菱合資会社唐津支店の本館だという。
わあ……本物だ。中に入れる日もあるのかな。
佐賀県の重要文化財になってる建物。開いてる日かどうかは、今日は調べてない。外から見るだけにしよう。写真は歩道の端から。入口の前は空けておく。[4]
はーい。……レイさん、今日、なんだか先生みたい。
ミサさんの真似。
建物を見上げてから、カノンは川のほうを向いた。レイが自分の用事を話し始めたのは、そのときだった。
私がここに来たかったのは、もう一つの作品のほう。『ユーリ!!! on ICE』の主人公の故郷、長谷津は、この唐津市がモデルの町。[2]
主人公は、それまでデトロイトを拠点にしてた。そこを離れて、五年ぶりに長谷津の実家へ戻ってくる。そしたら、ずっと憧れてた世界のトップ選手がいきなり現れて、自分がコーチをやるって言い出す。[2]
憧れの人が、自分の町に来ちゃうの!? 私だったら、気絶しちゃう。
待って、ここからが衣装。町ぐるみのアイスショーがあって、憧れの選手はそのために、昔自分が着た衣装をわざわざロシアから取り寄せる。[2]
ここから私の解釈。人の衣装を着るって、距離の話。遠くから見てた人の服に、袖を通す。体に合わない部分を、自分で埋めていく。氷の上での二人の距離は、たぶんそこから変わり始める。それに布。演目ごとに違う。滑ったときの裾の広がり方で、その人が何を見せたいかが分かる。私はそこばっかり止めて見てた。
そこまで一気に話して、レイは口を閉じた。
……今の、長かった?
ぜんぜん! もっと聞きたい。レイさん、私の衣装を直してるときも、そういうこと考えてたの?
考えてた。カノンさんはターンで回りすぎるから、裾は重めの布にした。……のりのことは、まだ許してない。
うっ。ごめんなさい。
昼は駅の近くの食堂で、二人とも定食を頼んだ。カノンは財布の中身を確かめてから、いちばん安いのにした。レイは何も言わずに、自分の小鉢を一つ、カノンの盆に移した。
午後は唐津城へ向かった。唐津駅から歩いて十五分ほど。廃城のあと、本丸は舞鶴公園になり、明治十年に公園として整備されて開放された。いまの天守は、昭和四十一年に建てられた模擬天守だ。
別名は舞鶴城。城を真ん中にして砂浜が左右に延びてて、それが翼を広げた鶴に見えるから。[3]
鶴の翼……! 衣装の袖にしたい。
のりは使わないなら、考える。
麓から公園の上の広場までは、高さにして三十四メートルある。上がりきったところで、カノンは息を整えた。広場の隅に、人の通らない一角があった。レイはあたりを一度見回してから、カノンの鞄を指さした。出すのはスピーカーではなく、衣装。
代わりの場所。音は出さない。声も小さく。一曲だけ。客は、私一人。
カノンは目を丸くして、それから衣装を胸に抱えた。上着の上から袖を通すと、裾が風で少しふくらんだ。スパンコールが、また一枚落ちた。レイはそれを拾って、ハンカチに足した。
観客が一人って、初めてかも。……き、緊張する。苦しゅうない……じゃなくて、いきます!
カノンは、いつもの礼をした。誰が見ても見事だと言われる、あの礼だった。それから、低い声で歌い始めた。ライブハウスで聴くより小さな声だった。二度目のターンで、足がもつれた。カノンは片手を地面について、すぐに立ち上がった。
今のはリハーサル!
レイが、声を出して笑った。カメラの前で作る顔とは、まるで違う顔だった。カノンはその顔を見て、歌の続きを忘れた。それから、もう一度最初から歌った。
一曲が終わって、レイは小さく拍手をした。拍手の音も、ちゃんと小さかった。
裾は、合ってた。重めにしてよかった。……それと。カノンさん、客が一人のとき、いちばん近くまで来る。ライブハウスでは、客席の真ん中を見て歌ってる。今日は、私を見てた。
だって、一人しかいないんだもん。……でも、そっか。ライブハウスのいちばん後ろの人にも、今みたいに歌えたらいいのかな。
それは、次の衣装の宿題。後ろまで届く袖にする。
帰りの唐津駅で、レイはハンカチを開いた。拾ったスパンコールは九枚になっていた。カノンが申し訳なさそうに覗きこんだ。
レイさん。次の衣装、最初から一緒に考えてもらえる? 私、ちゃんと言うことを聞くから。
条件がある。のりは禁止。スパンコールは縫う。一枚ずつ。
はい! ……五十枚、全部?
九枚からでいい。今日の客席の分。
次の週末、二人は手芸店のスパンコールの棚の前にいた。カノンは、拾った九枚と同じ色を、一枚ずつ選んだ。レイは携帯電話のメモを開いた。「袖:鶴の翼。後ろの席まで届く長さ。のり禁止」。少し考えてから、一行足した。「客席一人。いい顔だった」。それが誰の顔のことか、レイはメモには書かなかった。