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日常

糺の森で鼻緒をすげる

劇透範圍 無劇透 『るろうに剣心』は、逆刃刀を持つ元「人斬り抜刀斎」の剣客という人物紹介と、京都編の始まりの設定(政府転覆を狙う一派との戦いの場が京都と指定される)まで。『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』は、寅さんが京都で老人の下駄の鼻緒を直して知り合うという始まりまで。『有頂天家族』は、糺ノ森に住む狸の一家という設定まで。どれも展開と結末には触れません

『るろうに剣心』の京都を歩きたかったアカリと、寅さんの京都を案内したい竜山。地図で探しても「ここ」と言えない剣心の京都のかわりに、二人は狸の一家が住むという森を歩く。そこで、鼻緒の切れた人に出会う。

適合這樣的人
困っている人を見ると、考えるより先に体が動く人へ。説明してくれる大人と、一度ちゃんと旅をしてみたい人にも。
發言的人
Akari × Ryuzan
聖地巡禮 京都府京都市左京区(下鴨神社の糺の森と、賀茂川と高野川が合わさるあたりの鴨川のほとり) 十一月の土曜、朝から午後三時ごろまで

朝の鴨川のほとりで、竜山は川に向かって一礼してから、ゆっくりと型を一つ打った。八十六歳の拳が、冷たい空気を静かに割った。少し離れたベンチで、アカリはおにぎりを食べながらそれを見ていた。防具袋は東京に置いてきた。リュックには、推しのキーホルダーを一つだけつけてある。

Ryuzan

旅先でも稽古は休まん。アカリ、食うたか。

Akari

二個目。先生、それ通りがかりの人が見てる。

Ryuzan

見られて困る型は打っとらん。

京都に行きたいと言ったのはアカリだった。アカリのお母さんは「竜山先生が一緒なら」と言い、竜山は「明るいうちに新幹線に乗せて帰す」と約束した。日帰りの、昼間だけの旅だった。

Akari

私、剣心の京都を歩きたかったの。おととしの秋から、京都編のアニメ、第二期の『京都動乱』をやってたでしょ。それで漫画を読み返したら、行きたくなって。[2]

Akari

剣心は、昔「人斬り抜刀斎」って恐れられた幕末の志士で、いまは峰と刃が逆になった逆刃刀を腰に差してる。[6]

Akari

京都編は、政府を恨んでる一派が明治政府を倒そうとしてて、それを止める話。決戦の場が京都って決められたから、剣心たちは東京を出て、京都を拠点にするの。[1]

Akari

でも、調べたら、「ここが剣心の京都」って言える場所が見つからなくて。作品の中の京都は、作品の中にあるっていうか。

Ryuzan

ほんなら、今日は俺の京都に付き合え。寅さんじゃ。

Ryuzan

『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』。俺が四十を少し過ぎたころに、映画館で観た寅さんじゃ。京都に来とった寅が、葵祭で年寄りの下駄の鼻緒を直してやる。その縁で気に入られてのう。撮影には、この鴨川と、これから行く下鴨神社も使われとる。[3]

1982年公開、シリーズ第29作

Akari

鼻緒を直しただけで、気に入られるの?

Ryuzan

そこが寅のええとこじゃ。困っとる人を見たら、考える前に手が出とる。相手がどこの誰かは、あとの話よ。

二人は川に沿って北へ歩き、糺の森に入った。下鴨神社の境内に広がるこの森は、賀茂川と高野川が出合うところに育った原生林だという。広さは十二万平方メートルを超える。世界遺産としては、一九九四年に下鴨神社がまるごと登録を受けた。

森は、思ったより明るかった。ケヤキやエノキなど、葉を落とす木が多い。十一月の葉が、参道の砂利の上に散っていた。

Akari

ここ、ルカさんが好きって言ってたアニメの森だ。『有頂天家族』。京都で、人に化けた狸と天狗が、人間の中にまぎれて暮らしてて、狸の名家の一家がこの糺ノ森に住んでるの。[4]

Ryuzan

狸か。ほんなら、この森を歩いとる人の中にも、何匹か混じっとるかもしれんのう。

Akari

先生、それ、すれ違う人みんな見ちゃうからやめて。

参道の真ん中で、何人かが立ち止まって、紅葉に携帯電話を向けていた。後ろから来た人たちが、そのたびに左右に分かれて歩いていく。アカリは参道の端に寄って、竜山の袖を軽く引いた。

Akari

撮るなら端。真ん中で止まると、後ろの人が全員よけなきゃいけない。……あと、神社の門の前では一回礼する。先生の道場と同じでしょ。

Ryuzan

礼が先、勝ち負けはあと。写真も、あとじゃ。

そのときだった。少し先で、着物の年配の女の人が、片足を浮かせて立ち止まった。草履の鼻緒が、根もとから切れていた。女の人は困ったように足もとを見て、杖を持ち直した。

アカリは、もう走っていた。女の人の前にしゃがみこんで、草履に手を伸ばす。

Ryuzan

アカリ。先に聞け。

低い声だった。アカリの手が、草履の手前で止まった。顔を上げると、女の人は少し驚いた顔で、アカリを見下ろしていた。

Akari

……あの。手伝ってもいいですか。

女の人は、ほっとしたように笑った。「ほな、肩だけ貸してもろてええ?」。アカリが立ち上がって肩を出すと、女の人はそこに手を置いて、片足で体を支えた。竜山は懐から手ぬぐいを出し、端を細く裂いて、慣れた手つきで鼻緒をすげ直した。

Ryuzan

仮じゃが、家までは持ちましょう。

女の人は何度も頭を下げて、ゆっくりと森の出口のほうへ歩いていった。アカリはその背中を見送ってから、自分の手を見た。

Akari

私、草履をつかもうとした。あの人、たぶん足に触られたくなかったよね。肩でよかったんだ。

Ryuzan

助けたい気持ちは百点じゃ。手が出るのが速いのも、お前の強みじゃ。ただ、相手の体は相手のもんじゃ。触る前に一言。それで十分じゃ。

Akari

……ルカさんにも、前に同じこと言われた。私は「優しいなら早く助けて」って言い返したけど。今日は、ルカさんのやり方が合ってた。

Ryuzan

寅は聞かずに直したがのう。ははは。あれは映画じゃから、ええんじゃ。

昼は、森を出た先の通りの食堂に入った。アカリは大盛りの親子丼を頼んだ。竜山は品書きの端の、酒の欄をしばらく見ていた。それから、店の人に「熱いお茶を」と言った。

Akari

飲まないの? 先生、旅先では一杯やるっていつも言ってるじゃん。

Ryuzan

お前を預かっとる日は飲まん。帰りに何かあったとき、俺の頭が濁っとったら、お前のお母さんに顔向けできん。それが理由じゃ。

Akari

……説明してくれたから、文句ない。

親子丼を半分食べたところで、アカリの箸が止まった。食べているときだけ、アカリの言葉はやわらかくなる。

Akari

剣心って、ものすごく強いのに、斬らないための刀を持ってるでしょ。私、そこが一番しびれるの。でもさっき、助けるのにも、刀の向きみたいなのがあるんだって思った。強く出るのが速いだけじゃ、相手を怖がらせることもある。

Ryuzan

強い者ほど、手を出す前に一拍おく。俺が十代で教わったことじゃ。剣心の逆刃も、寅の鼻緒も、今日のお前の「手伝ってもいいですか」も、根っこは同じかもしれんのう。

Akari

先生、寅さんと剣心を同じ物差しで並べるの、ずるい。……でも、分かる。

食堂を出て、もう一度川べりに戻った。糺の森は、賀茂川と高野川が合わさるところに広がっている。アカリはしばらく、二本の流れがまざるところを見ていた。

Akari

剣心の京都、結局見つからなかったけど。今日来て、よかった。剣心が京都に戻ってきたとき、たぶんこういう川を見てたんだと思う。……これは、私がそう思いたいだけ。

Ryuzan

それでええ。物語の京都は物語の中、本物の京都はここ。両方持って帰れば、荷物は倍じゃ。

三時前の新幹線のホームで、アカリは竜山に頭を下げた。道場でするのと、同じ角度だった。「今日はありがとうございました」。それから少し照れて、「次は寅さん、ちゃんと観る」と付け足した。竜山は「二十九作目からでええ」と笑った。

列車が見えなくなってから、竜山は駅を出て、ふらりと川のほうへ戻った。日が傾きかけたころ、携帯電話が短く鳴った。アカリからだった。「着いた。母さんに鼻緒の話した。先生のこと、寅さんみたいって」。竜山は、小さな店の隅で、ようやく一杯目の猪口を持ち上げた。誰もいない向かいの席に、軽く掲げてから口をつけた。うまかった。今日いちばんうまかったのは、昼の熱いお茶のほうだったかもしれんがのう、と思いながら。

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