朝の鴨川のほとりで、竜山は川に向かって一礼してから、ゆっくりと型を一つ打った。八十六歳の拳が、冷たい空気を静かに割った。少し離れたベンチで、アカリはおにぎりを食べながらそれを見ていた。防具袋は東京に置いてきた。リュックには、推しのキーホルダーを一つだけつけてある。
旅先でも稽古は休まん。アカリ、食うたか。
二個目。先生、それ通りがかりの人が見てる。
見られて困る型は打っとらん。
京都に行きたいと言ったのはアカリだった。アカリのお母さんは「竜山先生が一緒なら」と言い、竜山は「明るいうちに新幹線に乗せて帰す」と約束した。日帰りの、昼間だけの旅だった。
私、剣心の京都を歩きたかったの。おととしの秋から、京都編のアニメ、第二期の『京都動乱』をやってたでしょ。それで漫画を読み返したら、行きたくなって。[2]
剣心は、昔「人斬り抜刀斎」って恐れられた幕末の志士で、いまは峰と刃が逆になった逆刃刀を腰に差してる。[6]
京都編は、政府を恨んでる一派が明治政府を倒そうとしてて、それを止める話。決戦の場が京都って決められたから、剣心たちは東京を出て、京都を拠点にするの。[1]
でも、調べたら、「ここが剣心の京都」って言える場所が見つからなくて。作品の中の京都は、作品の中にあるっていうか。
ほんなら、今日は俺の京都に付き合え。寅さんじゃ。
『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』。俺が四十を少し過ぎたころに、映画館で観た寅さんじゃ。京都に来とった寅が、葵祭で年寄りの下駄の鼻緒を直してやる。その縁で気に入られてのう。撮影には、この鴨川と、これから行く下鴨神社も使われとる。[3]
1982年公開、シリーズ第29作
鼻緒を直しただけで、気に入られるの?
そこが寅のええとこじゃ。困っとる人を見たら、考える前に手が出とる。相手がどこの誰かは、あとの話よ。
二人は川に沿って北へ歩き、糺の森に入った。下鴨神社の境内に広がるこの森は、賀茂川と高野川が出合うところに育った原生林だという。広さは十二万平方メートルを超える。世界遺産としては、一九九四年に下鴨神社がまるごと登録を受けた。
森は、思ったより明るかった。ケヤキやエノキなど、葉を落とす木が多い。十一月の葉が、参道の砂利の上に散っていた。
狸か。ほんなら、この森を歩いとる人の中にも、何匹か混じっとるかもしれんのう。
先生、それ、すれ違う人みんな見ちゃうからやめて。
参道の真ん中で、何人かが立ち止まって、紅葉に携帯電話を向けていた。後ろから来た人たちが、そのたびに左右に分かれて歩いていく。アカリは参道の端に寄って、竜山の袖を軽く引いた。
撮るなら端。真ん中で止まると、後ろの人が全員よけなきゃいけない。……あと、神社の門の前では一回礼する。先生の道場と同じでしょ。
礼が先、勝ち負けはあと。写真も、あとじゃ。
そのときだった。少し先で、着物の年配の女の人が、片足を浮かせて立ち止まった。草履の鼻緒が、根もとから切れていた。女の人は困ったように足もとを見て、杖を持ち直した。
アカリは、もう走っていた。女の人の前にしゃがみこんで、草履に手を伸ばす。
アカリ。先に聞け。
低い声だった。アカリの手が、草履の手前で止まった。顔を上げると、女の人は少し驚いた顔で、アカリを見下ろしていた。
……あの。手伝ってもいいですか。
女の人は、ほっとしたように笑った。「ほな、肩だけ貸してもろてええ?」。アカリが立ち上がって肩を出すと、女の人はそこに手を置いて、片足で体を支えた。竜山は懐から手ぬぐいを出し、端を細く裂いて、慣れた手つきで鼻緒をすげ直した。
仮じゃが、家までは持ちましょう。
女の人は何度も頭を下げて、ゆっくりと森の出口のほうへ歩いていった。アカリはその背中を見送ってから、自分の手を見た。
私、草履をつかもうとした。あの人、たぶん足に触られたくなかったよね。肩でよかったんだ。
助けたい気持ちは百点じゃ。手が出るのが速いのも、お前の強みじゃ。ただ、相手の体は相手のもんじゃ。触る前に一言。それで十分じゃ。
……ルカさんにも、前に同じこと言われた。私は「優しいなら早く助けて」って言い返したけど。今日は、ルカさんのやり方が合ってた。
寅は聞かずに直したがのう。ははは。あれは映画じゃから、ええんじゃ。
昼は、森を出た先の通りの食堂に入った。アカリは大盛りの親子丼を頼んだ。竜山は品書きの端の、酒の欄をしばらく見ていた。それから、店の人に「熱いお茶を」と言った。
飲まないの? 先生、旅先では一杯やるっていつも言ってるじゃん。
お前を預かっとる日は飲まん。帰りに何かあったとき、俺の頭が濁っとったら、お前のお母さんに顔向けできん。それが理由じゃ。
……説明してくれたから、文句ない。
親子丼を半分食べたところで、アカリの箸が止まった。食べているときだけ、アカリの言葉はやわらかくなる。
剣心って、ものすごく強いのに、斬らないための刀を持ってるでしょ。私、そこが一番しびれるの。でもさっき、助けるのにも、刀の向きみたいなのがあるんだって思った。強く出るのが速いだけじゃ、相手を怖がらせることもある。
強い者ほど、手を出す前に一拍おく。俺が十代で教わったことじゃ。剣心の逆刃も、寅の鼻緒も、今日のお前の「手伝ってもいいですか」も、根っこは同じかもしれんのう。
先生、寅さんと剣心を同じ物差しで並べるの、ずるい。……でも、分かる。
食堂を出て、もう一度川べりに戻った。糺の森は、賀茂川と高野川が合わさるところに広がっている。アカリはしばらく、二本の流れがまざるところを見ていた。
剣心の京都、結局見つからなかったけど。今日来て、よかった。剣心が京都に戻ってきたとき、たぶんこういう川を見てたんだと思う。……これは、私がそう思いたいだけ。
それでええ。物語の京都は物語の中、本物の京都はここ。両方持って帰れば、荷物は倍じゃ。
三時前の新幹線のホームで、アカリは竜山に頭を下げた。道場でするのと、同じ角度だった。「今日はありがとうございました」。それから少し照れて、「次は寅さん、ちゃんと観る」と付け足した。竜山は「二十九作目からでええ」と笑った。
列車が見えなくなってから、竜山は駅を出て、ふらりと川のほうへ戻った。日が傾きかけたころ、携帯電話が短く鳴った。アカリからだった。「着いた。母さんに鼻緒の話した。先生のこと、寅さんみたいって」。竜山は、小さな店の隅で、ようやく一杯目の猪口を持ち上げた。誰もいない向かいの席に、軽く掲げてから口をつけた。うまかった。今日いちばんうまかったのは、昼の熱いお茶のほうだったかもしれんがのう、と思いながら。