場内が明るくなっても、カノンは座ったままだった。エンドロールの最後の一行が消えるまで、膝の上でハンカチを握りしめている。隣のレイは、まっすぐ前を見たまま、一度だけ指先で目元を押さえた。
……レイさん。
待って。まだ話さないで。いま、整理してる。
ロビーに出ると、ポスターの前に小さな人だかりができていた。カノンは売店の横の壁に貼られた上映時間の紙を、もう一度見上げた。
五十八分って書いてあります。……嘘です。三時間くらいありました。
レイさん、泣いたあとでも数字が言えるんですね……。
泣いてない。
さっき、目のところ押さえてました。
空調で乾いただけ。
この映画館は、先月から昼と夕方に一回ずつ、このアニメ映画をかけている。実写の映画版が公開されたのに合わせて、もう一度上映することにしたらしい。
実写版は、今年の9月に公開されてる。私はまだ観てない。先にこっちをもう一回観たかった。[1]
誘ってくれて、ありがとうございます! 私、ひとりだったら、題名だけ見て、背中の話だと思ってました。
……半分は、合ってる。
カノンの手には、空になったポップコーンのLサイズの容器が残っていた。上映が始まって十分で手が止まった、と本人は思っている。それなのに、出てくるときには空だった。いつ食べたのか、本人も覚えていない。
これ、いつ空になったんでしょう……。
後半、ずっと食べてた。音はしてなかった。
外は、もう暗くなりかけていた。駅までは、商店街を抜けて十分ほど。二人は並んで歩きだした。
漫画を描く女の子が二人のお話、って紹介を読んで行ったんです。小学四年生の、学年新聞に四コマを描いてる子と、学校に来ていない子。[1]
私、机に向かってる背中が映るたびに、レッスン場の鏡を思い出しちゃって。誰も見てないところで、同じ動きを百回やってるときの背中って、ああいう形なんです。
公式に書いてあるのは、漫画を描く二人の女の子の話、まで。その先は、私の見方。
あの映画は、二人の顔より、机の置き方を見せてる。机と机のあいだの空き方で、二人の関係が分かるようにしてある。台詞で言わない分、家具が喋ってる。
家具が喋ってる……!
あと、ペンを持ってないほうの手。ずっと何かを押さえてる。紙とか、膝とか。描いてる人の手は、描いてない手のほうに性格が出る。
それで、二回目に観ると、最初は気にしてなかった……待って。この先は、まだ観てない人がいるところで言うことじゃない。
私、観ました!
道に、観てない人がいる。
レイが視線で示した先では、塾帰りらしい中学生が二人、たい焼きを分け合っていた。カノンは慌てて口を押さえた。
……今の、長かった?
ちょうどよかったです! 家具のところ、もう一回聞きたいくらい。
レイさんは、いつから衣装を作ってるんですか。
最初は小学生。好きなアニメに、友達のために毎回衣装を縫ってくる子が出てきて。戦う子より、その子のほうに目がいった。家にあったハンカチを切って、人形の服を作った。母に怒られた。
怒られたところまで、私と同じです! 私は、カーテンでした。
カーテンは規模が違う。
家の人みんなに、遠巻きにため息をつかれました。……でも、あの映画の二人、描いてるとき、楽しそうな顔と苦しそうな顔を、同じくらいしてましたよね。私も、舞台の練習をしてるとき、たぶんあの顔です。転んでも、やめたいとは一回も思わないのに、毎回ちゃんと痛い。そこだけは、すごく分かる気がしたんです。
頼まれてないのに続けてる人は、強い。……私も、誰にも頼まれずに型紙を引いてる。
初めて小さなライブを観た日、舞台の女の子と客席の人が、同じ顔で笑ってたんです。あの日から、私はずっと、あの顔の側に行きたくて。今日の映画の二人も、描いてるときだけ、同じ顔をしてた気がします。
……それは、私の解釈より先に、カノンの解釈として残しておくべき。
えっ、私の解釈、採用ですか!
採用。メモしておく。
レイは歩きながらスマホを出し、メモ欄に何かを打ちこんだ。画面をのぞこうとしたカノンは、たい焼きの屋台の看板に頭をぶつけかけて、ぎりぎりでよけた。
今のは、リハーサルです。
何の。
商店街の真ん中で、背の高い男が二人の前に回りこんだ。スーツの胸ポケットから、名刺がのぞいている。
すみません、モデルさんですか? ちょっとだけ、お話いいですか。
レイの表情が、すっと消えた。カメラの前で作る顔とは別の、何も映さない顔だった。
よくないです。
あ、いや、怪しい者じゃなくて――
よかろう、苦しゅうない、下がって……じゃなくて! 私たち、急いでますので! ごめんなさい!
カノンはレイの腕を取り、深々と一礼してから、早足で歩きだした。礼の角度だけは、どこから見ても完璧だった。男は名刺を手にしたまま、ぽかんと二人を見送った。
……男って、ほんと――
そこまで言って、レイは口を閉じた。三歩ぶんほど黙って歩いてから、言い直す。
……さっきの人は、ああいうやり方の人。それだけ。全員じゃない。
レイさん、いま、自分で止めましたね。
ミコに言われてる。嫌いでいいけど、雑にひとくくりにするのは別、って。……まだ練習中。
私も練習中のこと、いっぱいあります! ターンとか、針の持ち方とか、高い声とか。
さっきの「苦しゅうない」は、練習しなくていい。あれは効いてた。
駅前の広場に出た。カノンはベンチに座り、リュックから折れ曲がったスケッチブックを出した。次のライブの衣装の、デザイン画だ。
映画を観て、私も描きたくなりました! 見てください、新しい案です。羽根を三枚にしました!
画用紙の真ん中に、角の生えた女の子が一人。背中から、大きさの違う羽根が三枚、別々の方向に伸びている。一枚は、なぜか頭の上を越えていた。
それは違う。二枚。
まだ何も説明してません!
三枚目の羽根、ターンのときに隣の人の顔に当たる。それと、重心が後ろにずれて、カノンはたぶん転ぶ。
転ぶのは、今のはリハーサル、って言えば大丈夫です。
本番で言うことじゃない。
レイはスケッチブックを受け取り、自分のペンで、羽根の付け根に小さな丸を二つ描いた。
ここ。羽根がいちばん動くのは、まっすぐ立ってるときじゃなくて、振り返るとき。振り付けに、客席を振り返るところがあるでしょ。そこで二枚が同じ方向に揺れるように、付け根の角度をそろえる。
振り返るとき……。
背中は、振り返った瞬間にいちばん見られてる。……今日の映画で、そう思った。ここまで、私の解釈。
カノンはしばらく、二つの丸を見つめていた。それから、三枚目の羽根を、鉛筆の端の消しゴムで丁寧に消した。消しかすが、ベンチの上に小さく積もった。
二枚にします。そのかわり、二枚とも、ちゃんと振り返らせます。
いい。それなら、私が縫う。
あと、ルカーノさんに引き算してもらう前に、自分で引き算できました! 初めてです!
……それは、本当にえらい。
改札の前で、カノンは財布を開けて、小銭を数えはじめた。帰りの電車賃に、十円足りない。
あっ……ポップコーン、Lにしなければよかった……。
Lのほうがお得、って言ったのは私。だから、十円は私が出す。
次のライブで、いちばんいい席にご案内します! 立ち見ですけど!
行く。羽根の揺れ方、客席から確認する。……今度は客席で泣かないで。
レイさんこそ!
泣いてない。
カノンが改札を抜けて、一度だけ振り返って手を振った。ツインテールが、同じ方向に二本、揺れた。レイはそれを見て、スマホのメモに「振り返り:二本同時に揺れる。羽根も同じ角度で」と打ちこんだ。