カグラの休みの昼。海辺の町のシズカの台所で、カグラは昔のように布巾を持って、洗い上がった皿を一枚ずつ拭いていました。来月、劇場で『タイタニック』をかけ直す回がある。その話をしたのは、カグラのほうでした。
テレビで観たきりの一本
『タイタニック』は1997年のアメリカ映画です。監督と脚本はジェームズ・キャメロンさん。1912年に起きたタイタニック号の沈没事故を下敷きに、身分のちがう若い男女の恋を描き、その二人にレオナルド・ディカプリオさんとケイト・ウィンスレットさんが扮しました。事实[1]
物語の入口は現代です。深い海に沈んだ船を、調査船の上から小型の潜水艇で調べている人たちがいる。そこから話は、船が港を出た日へさかのぼっていきます。事实[1]
ええ、それなら私もテレビで観ましたよ。……観たはずなんですけれど、船が大きかったことしか覚えていないんです。喜好
それで十分です、ほんとに。長い映画なので、劇場では途中で一度席を立つ方もいらっしゃるんです。私はそのたびに、赤い懐中電灯で足元だけ照らしに行きます。喜好
本物の海の底から
動き出したのは1995年。キャメロンさんが最初にしたのは、海の底に眠る本物のタイタニック号にカメラを向けることでした。現代の場面は、その沈没船を撮るときに拠点にしていた調査船の上で撮影されています。船が沈んでいく様子は、縮尺模型、CG、そして撮影所に作った船の復元を組み合わせて再現されました。事实[1]
最初に本物を撮りに行った、というのが私は好きなんです。暗転のあと、客席はまだ恋の話が始まるとも知らずに、深い海の底を見ている。お客さんの肩が少し前に出るのが、うしろから分かります。解读
まあ。冷たい海の底から始めるのね。おなかの冷えそうな映画です。
割れない小道具と傾く船
次の撮影の場は、メキシコのロサリートにできたばかりのフォックス・バハ・スタジオ。ここに、本物と同じ大きさの船が建てられていました。沈むときに船尾が空へ向かって持ち上がった、その動きをなぞれるよう、ほんの数秒で水平から垂直まで起こせる蝶番も仕込まれています。事实[1]
スタントの人たちがけがをしないよう、小道具の多くは発泡ゴムで作られました。事实[1]
落としても割れないなら、うちの台所にも少し分けていただきたいですね。男の子たちが洗い物をすると、毎月お茶碗が一つ減るんです。
ふふ。あのころの私も、ここで一枚割りかけました。シズカさんが、何も言わずに次のお皿を渡してくれたの、覚えています。喜好
右へ歩く人は左へ
キャメロンさんは、撮影所の船を右舷に向けて建造することにしました。気象のデータを調べると、煙突の煙を船尾へ流す風は北から南へ吹いていたからです。困ったのは、左舷を岸につけて停まっていたサウサンプトンからの出港の場面でした。台本で右へ歩く人は、撮影では左へ歩く。指示も小道具も衣装も逆にして撮り、仕上げの段階でフィルムを正しい向きにひっくり返しています。事实[1]
まあ、鏡の中でお芝居をしているみたい。役者さんたち、頭がこんがらがらなかったのかしら。
私もそこが気になりました。でも劇場で観ていると、どこが逆だったのか、まったく分かりません。客席は、作った人たちの苦労にぜんぜん気づかないまま、船を見送るんです。それでいいんだと思います。解读
食卓の作法を習う俳優たち
俳優たちには、1912年ごろの上流の人々のふるまいを身につけてもらう必要がありました。そのために、作法を教える専門のコーチが雇われています。事实[1]
それは、分かる気がします。私も小さいころ、祖母に箸の上げ下ろしを毎日見られていました。作法は、身についていないと背中に出るんです。解读
大きな画面だと、背中ってよく映るんです。食事の場面は、今度はお皿じゃなくて、座っている人の背中のほうを見ます。……シズカさんの台所で習ったことのほうが、劇場で役に立っている気がします。喜好
そう。……少し疲れた顔をしていますよ、カグラちゃん。お昼、食べていきなさいね。長い映画の前は、おなかに何か入れておかないと。
本物の沈没船、実物大の船、左右を入れ替えた港の場面。客席が気づかない手間の上で、あの船は港を出ていきます。