カグラの休みの日の昼。駅から少し遠い小さな名画座のロビーで、開場を待つあいだ、イロハは天井を見上げて目を閉じていました。この日かかるのは『ボヘミアン・ラプソディ』。二人の話は、画面より先に音のほうへ転がっていきます。
客席が歌ってよかった上映
『ボヘミアン・ラプソディ』は、2018年の伝記映画です。主人公は、イギリスのバンド、クイーンで歌ったフレディ・マーキュリー。バンドが生まれた1970年から、1985年にウェンブリー・スタジアムで開かれたライヴエイドの舞台に立つまでを追いかけます。監督としてクレジットされているのはブライアン・シンガーさんで、フレディを演じたのはラミ・マレックさんです。事实[1]
この映画では、日本の各地で、上映の最中に手をたたいたり声を上げたりしてかまわない「応援上映」が数多く開かれました。いっしょに歌える回、ということです。事实[3]
カグラさんは、声を出していい回、行ったことある?
行った、というより、立っていました。劇場で働くようになって何年かたったころ、この映画の声を出していい回で、うしろの扉の横に。喜好
日本公開は2018年11月
最初は、前のほうの手拍子が少し遅れて届くんです。一拍の半分くらい。それが曲の途中で、場内ぜんぶがぴったりそろう瞬間がある。ふだんの上映では静かにしてもらうのが仕事なので、あの回はずっと、変な汗をかいていました。喜好
……遅れて届くの、分かる。うしろの席だと、声はいつも少しあとから来る気がする。喜好
元飛行場に建てたステージ
あのライヴの場面、本当にスタジアムで撮ったの?
ライヴエイドの場面は、スタジアムではなく、ボービンドンにあるもとの空軍の飛行場に組んだ大きなセットで撮影されました。事实[1]
ステージをできるだけ本物に近づけるため、バンドの記録を預かる係(アーキビスト)でもあったグレッグ・ブルックスさんが再現を見守り、細かい小道具まで当時のとおりに作り直されています。事实[1]
場内を毎日整える側としては、そこがいちばんうれしいところです。ステージの裏の、客席から見えないかもしれない物まで同じにする。見えなくても、そこに立つ人の体は分かるんですよね、きっと。解读
私には、あのステージの床が、日に焼けた古い木の色に見えた。乾いてて、足音がよく鳴りそうな色。喜好
足音で床を見るんですね、イロハさんは。
声の継ぎ目を探す
歌ってるのは、誰の声なの? 私、観ながらずっと継ぎ目を探してた。
役を受けたとき、マレックさんはクイーンについてそれほど詳しくありませんでした。ムーブメントコーチと何度も厳しい稽古を重ね、フレディの歯の形を表すための義歯をつけて話す練習もしています。事实[1]
歌の場面には、基本的にフレディ本人が歌った音源が使われています。そのうえで、一部はマレックさん自身が歌い、ほかに歌手マーク・マーテルさんの歌声も加えられました。マーテルさんは、クイーンのトリビュートバンドのボーカルのオーディションで勝ち抜いた人です。事实[1]
三人ぶんの声が混ざってるんだ。……結局、継ぎ目は見つけられなかったの。喜好
声を出していい回だと、もっと見つからないと思います。客席の声が、その上にもう一枚かぶさるので。あの日は、どこまでが画面の観客で、どこからがうちのお客さんの声なのか、うしろからでも分からないくらいでした。喜好
もう一つの観客席
私がこの映画で考えるのは、観客が二重になることです。スクリーンの中にも大きな観客席があって、こちらの客席も同じ動きをする。知らない人どうしが、同じ暗闇で、画面の中の知らない人たちと手をたたいている。あれは家ではできない観方だと思います。解读
ふふ。じゃあ、静かな回と声の回で、別の映画になるね。解读
……ねえ、ここの空調の音、低いでしょ。この館、天井が高い気がする。喜好
当たっているかどうか、ここでは私には分かりません。自分の場内なら、毎朝聞いているので言えるんですけど。
じゃあ今度、カグラさんのところで答え合わせする。
ええ、ぜひ。声を出していい回がまたかかったら、イロハさんは最後列で最初の数分だけ目を閉じてみませんか。私はその横で、客席のほうを見ていますから。
声を出していい回では、客席がスクリーンの中の大観衆に重なる。同じ場面でも、静かな回とは別の一本になります。