ゴウだ。映画『この世界の片隅に』の二周目の話をする。戦記ものではないが、戦争の時代を生きた人の話だ。最後まで観た人向けだ。展開にかかわるところは畳んである。まだの人は、先に映画館の席に座ってくれ。聞き手はカノン。
二周目を始める前に
公開は2016年。長編のアニメーション映画だ。原作は同じ題名のこうの史代の漫画で、監督も脚本も片渕須直。MAPPAが制作した。長さは129分。事实[1]
主人公はすず。昭和19年、18歳で広島市江波から呉へ嫁ぐ。物のない戦時下でも知恵をしぼり、暮らしを豊かにしていく姿を追う。事实[1]
ゴウくんがこれ選ぶの、なんかいいね! 刀も出てこないし、誰も名乗りを上げないのに。
……俺は戦記ものばかり読んできた。だが戦いそのものより、戦う前と後の静けさを見る。この映画は、その静けさだけでできている。喜好
冒頭のばけもん
映画の始まりは、夢なのか現実なのか分からない短い話だ。幼いすずが、海苔を届けるお使いに出て、その道で不思議な出来事に遭う。一周目は、絵の得意な少女の空想として流して観た。作品中的观察
结局·真相結末に関わる設定点击展开
原作のあらすじでは、すずは「ばけもん」にさらわれる。押しこまれた背中の籠には、知らない少年がいた。それが周作だ。年月がたって、周作は、子どものころにたった一度会っただけのすずに求婚する。二周目に冒頭を観ると、あの籠の中の時間が、二人の物語の最初の約束に見えてくる。言葉で交わした約束ではない。それでも、この映画でいちばん長く守られた約束だと、俺は思った。解读[2]
えっ、そうなの!? 二周目、冒頭だけもう一回観る……よかろう……じゃなくて、観ます!
祖母の家の天井裏
すずの一家が祖母の家へ行く場面がある。すずが昼寝から起きると、天井裏から知らない女の子が下りてきて、食べ終えたすいかの皮を拾う。兄の見立てでは、座敷童子じゃないか、ということだった。事实[2]
结局·真相エンドロールのこと点击展开
エンドロールも終わりのほう、クラウドファンディングに応じた人たちの名前が流れるところで、遊女リンの生い立ちが描かれる。原作にあった話だ。祖母の家に出た座敷童子の正体がリンだったことも、そこでわかる。二周目にすいかの場面を観ると、あの少女がどこから来て、どこへ行くのかを知ったうえで、すずが新しいすいかを持ってくる手の優しさが、ずっと先まで届いている気がした。解读[1]
エンドロール、私は最後まで座ってる派! 舞台も、最後のお辞儀まで観てほしいもん。喜好
幼なじみの水原
水原哲は、すずの幼なじみだ。小学校のころの二人は、互いに相手を憎からず想っていた。事实[1]
中段为止中盤で語られること点击展开
見合いから逃げ出したすずが周作と出会う、そのきっかけを作ったのは水原だったと映画では語られる。すずへの結婚の申し込みに来た周作たちが、帰りに水原に道を尋ねた。水原はわざと別の方角を教え、周作たちを迷わせた。二周目は、水原の顔を、その一件を知ったうえで観てほしい。自分の想いを抱えたまま、相手の行き先を変えてしまった男だ。悪意とも、照れ隠しとも読める。俺はどちらとも決めずに観た。解读[1]
絵筆で描かれた空
すずは絵を描くことが得意だ。二周目は、すずが筆や鉛筆を持つ場面を数えるつもりで観た。手が何かを描いている間は、周りの音が少し遠くなったように感じた。描くことは、すずにとって、目の前のものを自分の中に受け止めるための型のように見える。作品中的观察
中段为止中盤の展開(呉の空襲)点击展开
呉軍港が初めて空襲を受ける場面。すずは戦いの景色に目を奪われ、頭の中で、色とりどりの爆煙を絵筆で塗っていく。原作は白黒で、この描き方はない。当時、軍艦の高角砲の弾には、見分けるための色つきの弾が混ぜてあった。映画はその史実をもとに手を加えたという。怖い場面のはずなのに、一周目の俺は、一瞬きれいだと思ってしまった。二周目は、その一瞬を自分の中に認めたうえで観た。描く人の目は、怖いものまで描いてしまう。解读[1]
晴美は周作の姉の娘だ。兄から軍艦の名前を習っていて、小さいのに、すずより軍艦をよく知っている。二周目は、この子が港を見ている場面を、一つも飛ばさずに観た。解读[1]
结局·真相結末に向かう展開点击展开
原作のあらすじでは、昭和20年6月22日、空襲のあとに時限爆弾が破裂する。すずのすぐ前で晴美が死に、すず自身も右手をなくす。二周目は、晴美が軍艦を指さす場面と、すずが右手で描く場面を、一つずつ噛みしめながら観た。前半の何気ない場面のほとんどが、失われるものの目録になっている。解读[2]
……二周目、そこがいちばんしんどかった。でも、前半ですずさんが笑ってくれてるの、すごく大事だったんだって分かった。喜好
……ああ。笑うのは、軽いからじゃない。重いものを背負っても、台所に立つためだ。解读
台所から出た言葉
すずはずっと台所に立っている。米を炊き、配給の少ない日をやりくりする。一周目は、暮らしの描写として観た。二周目は、その手つきの一つずつが、終盤のある言葉につながっていると思って観た。解读
结局·真相終盤の場面点击展开
戦争が終わったと告げる放送のあと、すずが一人でつぶやく言葉は、原作とは台詞が違う。映画のすずは、海を渡ってきた米や大豆で自分の体はできている、だから暴力にも屈しなきゃならないのか、とつぶやく。監督の説明はこうだ。すずは毎日台所に立ってきた生活の人だから、食べものに結びつけて反応するほうが、すずらしい。事实[1]
戦記ものなら、ここで将の言葉が来る。この映画では、毎日米を炊いてきた人の言葉が来る。二周目は、前半の台所の場面を、この台詞のための稽古として観た。解读
ゴウくんも台所に立つの? なんか、包丁持ってたら別の映画に見えそう……あっ、ごめん、今のなし!
……毎朝、米は自分で炊く。稽古の前に、黒いコーヒーと一緒に食う。……顔のことは、慣れている。
毎朝ちゃんと炊くの、すずさんと同じだね。舞台も同じかも。本番の日より、なんにもない日の練習のほうが、あとで効いてくるもん。喜好
结局·真相結末点击展开
原作のあらすじでは、焼け跡になった広島で、すずと周作の前に、戦争で親をなくした女の子が現れる。二人はその子を連れて呉へ帰る。もう空襲を怖がらなくていい呉では、夜の街に明かりがともっている。二周目に冒頭の籠の場面へ戻ると、出会いから始まった物語が、また別の出会いで閉じていることに気づく。守るものは、失っても、また引き受けられる。解读[2]
ゴウくん、帰り道に泣いた?
……別に、泣いていない。公園で猫に会釈して、逃げられただけだ。
二周目は冒頭の海苔のお使いから。夢のような短い話が、最後の場面まで続く一本の線の端になっている。