古本屋の軒先に、イツキが100円コーナーの台を引っぱり出したところで、作業着の男の人が段ボールを抱えて立ち止まった。箱の側面には、太いペンで「漫画」とだけ書いてある。
すみません。買い取りをお願いしたいのですが、今よろしいでしょうか。家の本棚が、とうとう閉まらなくなりまして。
ありがとうございます。値段のほうは奥の祖父が見ますので、少しお待ちください。……閉まらなくなった、っていうのは、扉つきの本棚ですか。
ええ。ガラス戸の。横に寝かせて詰めていったら、戸が三センチほど浮いてしまって。床が抜ける前に、と思いまして。
そこへ、ギターケースを背負った男が通りかかった。目は100円コーナーの台に釘づけで、足だけ止まらずに進もうとして、結局戻ってきた。
……偵察だ。続き、入ってるか。
一冊でいい。まとめて買うと置くとこがねえ。
ジンさんはいつも一冊ずつですよね。読み終わったのって、どこに置いてるんですか。
楽屋。読んだら置いてく。次の町で、誰かが読んでる。それだけだ。
楽屋が本棚ですか。それは、ずいぶん広い本棚ですね。
家に置くと増えるだろ。増えると、どれが自分のか分かんなくなる。キングダムは、下僕だったガキが天下の大将軍を目指す話だ。あれは手元に積むより、読んだやつが増えたほうがいい。[1]
原泰久の漫画。週刊ヤングジャンプで連載
キングダムは、中国の戦国の世の話でしたね。のちに国々をまとめる秦の王と、その下で大将軍を目指す少年。……すみません、私が言うと年表のようになりますね。[2]
腕一本でのし上がる話を、一人で抱えずに配って回る。……ジンさんらしいですね。
別に配ってねえ。置き忘れてるだけだ。
置き忘れた巻、誰が読んでるか分かるんですか。
分かる。同じバンドのベースのやつが、次の町の楽屋で続きを催促してくる。あいつとは趣味が合わねえのに、そこだけ合う。
続きを待っている人がいるなら、置き忘れではなく、もう貸し出しですね。
……言い方の問題だろ。
店の中から、丸眼鏡に深緑のカーディガンの女の子が出てきた。腕に三冊の本を抱えている。イツキに小さく頭を下げて、段ボールのそばで立ち止まった。
イツキさん、この三冊、お会計をお願いします。……あの、その箱、全部手放すんですか?
全部ではないんです。戸が閉まる分だけ、と決めて詰めたら、この箱一つぶんになりました。皆さんは、本棚に入らなくなったとき、どうしていますか。
私は、本棚の一段だけを自分の場所にしてもらってて、そこに入る分しか持たないって決めてます。入らない本は図書館で借ります。
その一段に、とんがり帽子のアトリエは入れてあるんです。魔法使いに憧れる女の子、ココが主人公の漫画で。何度も読み返すから、借りるわけにいかなくて。[3]
白浜鴎の漫画。講談社の月刊モーニングtwoで連載
ずっと夢だった魔法使いの弟子になって、魔法陣を描く決まりを一つずつ覚えていくんです。……ごめんなさい、本の話になると長くなって。[4]
一段に入るかどうかで、読み返す本を選んでるんですね。
はい。新しく入れたいときは、一冊を出さないといけなくて。出す本を決めるのに、一週間かかりました。……出した本は、ここに持ってきました。
一冊出すのに一週間か。……いい選び方じゃねえか。
ジンさん、ですよね。楽屋に置いてくるのは、寂しくないんですか?
……全部は置いてかねえ。一冊だけ、ケースの内ポケットに入れっぱなしのがある。
何の本ですか?
言わねえ。……別に、大したもんじゃねえ。
ジンはギターケースを背負い直し、内ポケットのあたりを片手で押さえた。イツキは見なかったふりをして、キングダムの次の巻を紙袋に入れた。
タカシさんのおうちの本棚は、どうして閉まらなくなったんですか? 漫画だけですか?
漫画と、それからプラモデルの箱です。本棚の上の段が、敵の機体の箱で埋まっていまして。主役の機体より先に、敵のほうを作ってしまう癖があるんです。
敵から作んのか。分かってんじゃねえか。
褒められたのは初めてです。会社では、置き場を取るだけだと言われています。
私は、会社の応接室の棚に置くことにしたものがあります。三国志です。自分の家に置くと読み返さないのに、会社に置くと若い人が一冊ずつ借りていく。返ってくると、帯の折れ方が変わっているんです。
帯の折れ方。……それ、すごくいい置き場ですね。
人を集める話を、人が集まる場所に置いてみただけです。ジンさんとは、置き場でも意見が分かれましたね。
分かれてねえ。俺のは一人で置き忘れてるだけで、そっちは集めて貸してる。……ちょっとしか違わねえ。
イツキさんは、どうしてるんですか? 古本屋さんなら、置き場はたくさんありそうです。
店の棚は店のものなので。僕のは、部屋の床に積んでます。渡したい人が決まった山と、まだ決まらない山。決まらない山のほうがいつも高くて、ときどき崩れます。
今いちばん上にあるのは、火の鳥です。手塚治虫が、自分のライフワークだと言っていた漫画で。巻によって、ずっと昔の話になったり、遠い未来の話になったりするんです。[5]
だから、渡す人によって、どの巻を一番上にするか変えたくなる。それで床から動かないんです。
その山、崩れたらどうすんだ。
崩れたら、いちばん上に来た本の人に、その週のうちに渡します。山が勝手に決めてくれたと思うことにしてて。
本が自分で行き先を選ぶ……それ、ちょっと魔法みたいです。
床の山も、置き場なんですね。ノートに書きます。「本棚じゃない置き場」。
床の山は、まだ行き先の決まっていない本の待合室ですか。……私の段ボールも、そう思うと少し気が楽になります。
奥から、イツキの祖父が老眼鏡を額に上げて顔を出した。イツキは段ボールを両手で受け取り、帳場の横にそっと置いた。一番上の一冊だけ、表紙の角がやわらかく丸くなっている。
この箱の漫画、ちゃんと次の人の棚に入るようにします。全部は無理でも、一冊ずつ。そこは任せてほしいっす。
よろしくお願いします。戸が閉まったら、たぶん今度は、棚が広く見えすぎるんでしょうね。
広すぎたら、また買いに来りゃいい。100円コーナーに戻ってくんだろ。
あの……その箱から、一冊だけ、立ち読みしてもいいですか?
イツキは黙ってうなずき、箱のいちばん上の一冊をリリィに渡した。タカシは自分の手放した本を読みはじめた女の子から少し離れて、100円コーナーの台の端を、意味もなく指で揃えていた。