一時二十分。剣道の稽古の帰り、竹刀袋を背負ったアカリが商店街を抜けたところで、空が急に暗くなった。三歩目で、大粒の雨が来た。
いちばん近い軒下に駆けこむと、先客がいた。荷台に配達用の大きな箱を積んだ自転車と、その横で、濡れた前髪をていねいに指で整えている金髪の青年。
……あ。ルカさん。
これは、アカリさん。こんにちは。突然の雨で、まことに……いえ、お互いさまですね。どうぞ、こちらの、比較的濡れていない側へ。
いいよ、端で。
では、私が端へ。
いや、そういうのいいから。
二人は軒下の真ん中で、半歩ずつ譲り合ったまま止まった。結局、真ん中には竹刀袋が立てかけられた。
配達、間に合うの?
お届けは二時半までですので、雨がやむのを待つ余裕はございます。……正確に申しますと、余裕はあったのですが、先ほど道に迷いまして、その余裕をほぼ使い切りました。
つまり、ぎりぎりってこと。
……はい。
通りの向かいはバス停だった。屋根の下に入りきれない端のところで、小柄なおばあさんが、雨に濡れて破れた紙袋を両手で抱えていた。底から、みかんが一つ、二つと転がり出る。
アカリはもう走り出していた。
アカリさん、お待ちください、まずご本人のご希望を——
返事はなかった。アカリは雨の中でしゃがんで、側溝の手前で止まったみかんを拾っていた。ルカは配達の箱の雨よけを確かめてから、遅れて道を渡った。
おばあちゃん、これで全部? 家どこ? 持ってくよ。
あらまあ、ありがとうね。でもね、バスがもうすぐ来るのよ。
じゃあ、バスのとこまで——
失礼いたします。……どちらまで、どのようになさりたいか、伺ってもよろしいでしょうか。
袋が破れちゃっただけなの。入れるものがあれば、それでいいのよ。
ルカは上着の内ポケットから、小さくたたんだ布の袋を出した。角までぴたりとそろえて、四つに折ってある。
こちら、お使いください。お返しいただかなくて結構です。
まあ、きれいにたたんであること。
アカリが拾ったみかんは七つ。布の袋に入れると、ちょうどいっぱいになった。三分後にバスが来て、おばあさんは窓ぎわの席から、二人に小さく手を振った。
アカリは、道場でするのと同じ角度で頭を下げた。隣でルカも、同じ深さで頭を下げていた。
軒下に戻ると、二人とも肩までしっかり濡れていた。
……家まで持ってこうとしてた。私。
はい。
バス待ってる人に「家どこ」って。……聞く前に、もう決めてた。
ですが、アカリさんが走らなければ、みかんは側溝に落ちていました。私は、ご希望を伺う言葉を考えているあいだに、たぶん二つは見送っていたと思います。
二つ見送ってから聞くのは、遅いよ。
はい。遅いです。
でも、聞かないで持ってくのも、違った。
足して二で割ると、ちょうどよいのかもしれません。
割らなくていい。足せばいい。私が拾って、ルカさんが聞く。
……なるほど。足すだけ、ですか。
そう。割ると、どっちも半分になるじゃん。
ルカは、その言い方を気に入ったらしく、小さく二回うなずいた。
アカリは、ルカの自転車の荷台に目をやった。配達の箱の雨よけの端から、しずくが箱の角に落ちている。アカリは稽古用のタオルを鞄から引っぱり出して、手を伸ばしかけ、そこで止まった。
……それ、拭いていい?
え。
聞いてから。今日覚えたから。
……はい。ぜひ、お願いいたします。角のところだけ、少し水が入りやすいもので。
アカリは箱の角を、竹刀の手入れをするときと同じ手つきで拭いた。ルカは、そのタオルの端に小さく刺繍された竹刀の模様を、黙って見ていた。
アカリさんは、どうして剣道を。空手も続けていらっしゃると伺いましたが。
礼が先で、勝ち負けはあと、ってとこ。決まりが多いけど、全部に理由があるの。理由を聞いたら、師範はちゃんと答えてくれるし。
ルールが嫌いなんじゃないんだよね。説明もしないで従えって言われるのが嫌いなの。
……それは、よく分かります。私も、説明の機会をいただけなかったことが、昔、一度だけ。
一度だけ?
一度で、十分でした。
アカリは何か言おうとして、言葉を探して、やめた。かわりに、拭き終わったタオルを四つにたたんだ。ルカの布の袋と、同じたたみ方だった。
ルカさんってさ、るろうに剣心、知ってる?
お名前は、存じております。
それ、知らないってことでしょ。
……詳しくは、存じません。
幕末に「人斬り抜刀斎」って恐れられてた剣客が、明治になってから「不殺」……殺さないって誓って、流浪人として旅してる話。[1]
刀も、峰と刃が逆になってる、逆刃刀ってやつで。[2]
斬れない刀で、戦うのですか。
戦う。でも、斬らない。そこがかっこいいの。強いのに、強さの使い方を自分で決めてるとこ。
……力を、使わないと決めている方のお話なのですね。
ルカの声が、少しだけ低くなった。アカリは気づかずに、竹刀袋のひもを結び直していた。
使わないんじゃなくて、使い方を選んでんの。そこ大事。
はい。……そこは、大事です。
てかさ、流浪人って、家がないってことでしょ。どこで寝てたんだろ。
それは、私もいつも気になります。物語の方は、どちらで眠るのか。
ルカさんって、どこ住んでんの?
私は……その、決まった住まいというものを、目下、整えている途中と申しますか、条件の合うところをいくつか比べている段階と申しますか——
つまり?
……探しています。
ふうん。見つかったら教えて。引っ越し手伝う。運ぶのは得意だから。
……ありがとうございます。そのときは、まず私の希望を聞いていただけますか。
聞く。今日覚えたから。
ルカさんの好きなのは? 漫画でもアニメでも。
呼び出したのは、魔法の才能がまるでないと笑われている少女で、ゼロのルイズ、と呼ばれております。[3]
ゼロって、ひどいあだ名。
はい。ですが、私の目には、ルイズは気位が高く、意地っ張りで、誇りだけは決して曲げない人に見えるのです。私は、そこがたいへん、好きでして。
誇りを曲げないのは、分かる。
アカリさんは、少しルイズに似ていらっしゃるかもしれません。
……それ、ほめてる?
はい。たいへん、かわいらしい……
アカリの眉が、ぴくりと上がった。
……いえ、凛々しい、と申し上げるつもりでした。言葉を選び損ねました。
凛々しいなら、いい。
てかルカさん、言い直すの早くなったね。前は三行くらい前置きしてたのに。
言い直しませんと、竹刀が出てくる気がいたしましたので。
出さないよ。竹刀は礼が先。
ルカは口もとを押さえて、くるりと背を向けた。肩が小さく震えている。
……笑ってる?
笑っておりません。
笑えばいいのに。
大笑いは、その、しないことにしておりまして。
なんで。
……人さまの前で大きく笑いますと、いろいろと、その、差し障りが。
ふうん。じゃあ、小さく笑えば。
ルカは背中を向けたまま、ほんの少しだけ息を漏らした。それが、ルカの小さく笑うの、だったらしい。
雨は、来たときと同じくらい急に細くなった。二時五分。
やんだ。行きなよ、配達。二時半でしょ。
はい。……急ぎます。
急げるの?
急ぎますと、お届け先でのお詫びの言葉を考える時間がなくなりますので、急がずに、間に合わせます。
それ、どういう理屈。
私にも、よく分かりません。
ルカは自転車を押して通りに出ると、一度だけ振り返って、ていねいに頭を下げた。アカリは竹刀袋を背負い直して、片手を上げた。商店街の水たまりに、薄い晴れ間が映っていた。