練習が終わって、ドラムはもう先に帰った。ロビーの自販機の前で、ジンはギターケースを背負ったまま、レンはベースのケースを足もとに立てて、それぞれ缶コーヒーを開ける。二人は音の上では誰よりも通じるが、ふだんはほとんど話さない。今夜はめずらしく、ジンのほうから口を開いた。
……レン。お前、『音楽』って映画、観たか。
題名が?
題名が『音楽』だ。二文字。アニメの映画。
知らない。
だろうな。俺のまわりで観たやつ、一人もいねえ。ツアー先のホテルで、配信の一覧を流してたら、題名が短すぎて逆に止まった。
どういう話。
不良の高校生が三人。楽器なんか触ったこともねえ連中が、思いつきでバンドを始める。[1]
きっかけがいい。主人公の研二が、ひったくりを追いかけてるバンドマンから、ベースを押しつけられる。で、そのまま家に持って帰る。[1]
持って帰るんだ。
持って帰る。返さねえ。……真似すんなよ。
レンは缶を口に運びかけて、止めた。笑ったのか、むせたのか、ジンには分からなかった。
で、ここからがお前の話だ。そのバンド、ベースが二本ある。あとは太鼓が二つ。シンバルもねえ。[1]
ベースが、二本。
ギターなし、ベース二本。お前、それで曲になると思うか。
低音しかない。帯域がぶつかる。
ぶつかる。それでいい。そいつらが最初に鳴らした一音で、三人とも、ぶっ飛ぶ。曲になってねえ。ただの音だ。でも、そこから全部が始まる。[1]
バンドの名前が決まるのも、仲間の亜矢って女子に、その音を聴かせたあとだ。客は一人。[1]
一人。
一人で十分だろ。最初に人前で鳴らした日のことは、誰がどこに立ってたかまで覚えてる。お前もだろ。
覚えてる。
コードは?
知らねえよ、あいつら。……俺も最初はそうだった。コードを一個も知らねえで、開放弦だけ、ずっと鳴らしてた。それで十分、腹の底まで来た。
ジンは空いた手の指で、缶の縁を四回、同じ速さで叩いた。レンの目がそこに落ちた。
……今の、走ってない。
知ってる。
主人公の研二がまたいい。ほとんど顔が動かねえ。口数も少ねえ。何考えてんのか分かんねえ顔で、ベースを鳴らす。[1]
そういう人、知ってる。
誰の話だ。
答えは言わない。
ジンは舌打ちを一つして、缶を一気にあおった。
不良の映画なのに、ケンカの場面が一個も映らねえ。そこも気に入ってる。殴る話じゃねえんだ。鳴らす話だ。[1]
拳の話が好きなのに。
拳の話も悪くねえ。……でも、拳を握ってたやつが、手をひらいて弦をはじく。俺はそっちのほうに、腕がざわっとくる。
バンドの名前も、仲間の朝倉の思いつきで『古武術』。で、同じ学校に『古美術』ってバンドがいた。一字違い。[1]
一字違い。
向こうは、森田ってやつのフォークのバンドだ。ケンカになるかと思うだろ。ならねえ。お互いに、自分らの演奏を聴かせ合う。森田は、古武術の音を聴いて、ぶっ飛ぶ。[1]
上手いほうが、下手なほうに。
上手い下手の話はしてねえ。……初めて鳴らした音にしかねえもんがある。お前も知ってるだろ。
知ってる。
僕は、森田のほうだと思う。
知ってる。お前は譜面どおりに弾いて、一個もずらさねえ。
ずらさないのは、仕事だから。
だから言ってんだ。森田がその音を聴いたあと、どうなるかは言わねえ。お前が自分で観て、自分の耳で確かめりゃいい。
言わなくていい。
レンは缶を床に置いて、ケースの留め金を一度だけ外し、また留めた。考えるときの癖だと、ジンは知っている。
作ったのは岩井澤健治って監督だ。原作は大橋裕之の漫画。監督が、脚本も、絵を動かすほうも、自分でやってる。[2]
監督が、自分で絵を動かしてる。だから動きが人間くせえ。ちょっとずれる。そのずれが、ライブの音に聞こえる。
全部、一人で?
そこまでは知らねえ。……名簿と数字は、お前の担当だ。
研二の声は坂本慎太郎。俺には、あの声があの顔にぴったりはまって聞こえた。[1]
長さは。
それと、外国のアニメの映画祭で、長編のいちばん上の賞を取ってる。俺のまわりで誰も観てねえのが、逆に不思議なくらいだ。[2]
オタワ国際アニメーションフェスティバルの長編部門でグランプリ。日本公開は2020年1月11日
賞の話は、いらない。
だろうな。お前はそういうやつだ。
ジンは背中のギターケースを下ろして、ロビーの長椅子に立てかけた。しばらく黙ってから、珍しく長く話した。
……俺は、腕一本でのし上がる話ばかり読んできた。この映画は違う。うまくなる前の、最初の一歩のとこだけを、ずっと見せてくる。のし上がる手前の音だ。そこで腹の底が熱くなる。
のし上がる手前。
ああ。……それだけだ。
どこで観られる。
俺は配信で観た。いまもあるかは知らねえ。題名が二文字だから、探すときは監督の名前も一緒に入れたほうが早え。
レンは缶を両手で包んだまま、しばらくスタジオの防音扉のほうを見ていた。扉の向こうでは、次のバンドの音がくぐもって聞こえる。
……ジン。一つだけ。
おう。
ベースが二本のところ。どっちが下を弾いてるか、聴き分けられる?
……知らねえ。考えたこともねえ。
じゃあ、そこは僕が聴く。
いいじゃねえか。……観たら言え。どっちが下だったか。
うん。
レンは鞄から方眼ノートを出して、新しいページの隅に二文字だけ書いた。ジンはそれを横目で見て、何も言わずにギターケースを背負い直した。
……別に、お前に観てほしいわけじゃねえ。ベースが二本の話だから、言っただけだ。