十二時四十分。ブースの裏の、段ボールで仕切っただけの休憩スペース。イロハはパイプ椅子に座ると、首から下げたスタッフ証を裏返して、ボールペンのノートを開いた。午前中に見た色を、忘れないうちに書いておく。
「朝いちばんの搬入口の、灰色がかった青」「ブースの床に落ちていた、誰かのチラシの黄色」。
仕切りの段ボールがめくれて、エマが入ってきた。インターンの名札。片手に無線機、もう片方の手にサンドイッチを二つ。
イロハさん、休憩一緒にいい? 午前だけで、英語と中国語とフランス語、全部使った! 新記録!
おつかれさま。……エマちゃん、まだ声が会場の音量のままだよ。
あ。(小さく)……おつかれさまです。
エマはサンドイッチを一つイロハに渡すと、自分の分をくわえたまま、無線機の裏ぶたを開けた。
それ、壊れたの?
ううん。さっきから音がざらざらしてたから、ちょっと見てるだけ。……はい、直った。
直せるんだ。
なんとなく。こういうの、なんか得意なの。
イロハは「なんとなく」の意味を深く考えずに、ノートに「無線機の黒は、ブースの黒より少し青い」と書き足した。
そうだ、さっき海外のお客さんに聞かれたの。「この会社の人の、いちばん好きな作品は?」って。
なんて答えたの?
映像研には手を出すな!って言った。イロハさんの机に、いつも置いてあるから。
……合ってる。
でも説明が難しかった。どういう話か、私、ざっくりしか知らなくて。
浅草みどりっていう女の子がいて、ひとりじゃ動けない小心者なの。でも夢は、アニメを作ること。[1]
アニメーター志望で親に反対されてる子がいて、みどりと意気投合するの。もうひとりの友だちも加えて、三人でアニメの「最強の世界」を作ろうとする話。[1]
最強の世界。いい響き。……イロハさんは、どこが好きなの?
描いてるときの、鉛筆の音。……ううん、正確には、鉛筆の音がしそうな画面。
音がしそうな画面。
うん。線が走ってるとき、私の耳の中で、紙がこすれる音がするの。画面に入ってる音じゃなくて、私が勝手に聞いてる音なんだけど。
それ、英語でなんて言えばいいかな。"I can hear the pencil" だと、ほんとに鳴ってるみたいになっちゃう。
鳴ってないの。鳴りそうなの。
"It looks like it sounds"……うーん、変な英語。
変な英語、好き。
あとね、テレビアニメの第九話の題名が「コメットAを目指せ!」なの。さっきお客さんのスマホで話数の一覧を見せてもらった。[1]
コメットAって、こういうイベントのこと?
それは、観てのお楽しみ。
Ah、ネタバレ禁止の顔だ。
エマちゃんも、好きな作品の先、すぐ言いそうになるもんね。
言わないよ! ……言わないように、いまサンドイッチ噛んでる。
イロハはノートのページを一枚戻して、エマに見せた。ページの上に「リズと青い鳥」とだけ書いてあって、その下には色の名前ばかりが並んでいる。
これ、映画?
フルートとオーボエ。……音の映画だ。
音と、音がないところの映画。私、ここに書いた色が、ずっと言葉にできなくて。
どれ?
これ。「水色になる前の、まだ何色でもない白」。
エマはしばらく、その一行をじっと見ていた。サンドイッチを置いて、自分のスケッチブックを開き、鉛筆で、白い紙の上にほとんど色のない影を薄く重ねはじめた。
英語なら……"white" じゃ足りない。"off-white" だと、少しくすんだ白みたい。
くすんではいないの。
フランス語だと、blanc cassé。「割れた白」って書いて、ほんの少し色が混ざった白のこと。……でも、割れてないよね、これ。
割れてない。まだ、何にもなってないの。
じゃあ、中国語。「月白」。月の白。青がほんの少しだけ入った白を、昔からそう呼ぶの。
イロハは、ボールペンを持ったまま止まった。
……月の白。
合ってる?
合ってるかどうかは、分からない。でも、聞いた瞬間に、あの場面の、明かりがつく前の数秒が見えた。
それ、最高!
声。
(小さく)……ないす。
イロハはノートの「まだ何色でもない白」の横に、小さく「月白」と書いた。その下に、エマの字で「blanc cassé(ちょっと違う)」と「off-white(だいぶ違う)」が並んだ。
エマちゃんは、色で好きな映画ってある?
私には、描いたときの鉛筆の線が、消されないで残ってるように見えたの。オオカミのほうの場面だけ、線がざらざらしてて。そこがすごく好き。
……線が残ってるの、私も好き。消しゴムで消さない線。
イロハさんのノートも、ボールペンだもんね。消せない。
消せないから、まっすぐ引けなかった線も、そのまま残ってる。
それ、ウルフウォーカーと同じだ。
……それは、ちょっと言いすぎ。
言いすぎじゃないよ。私、写実的な絵ばっかり描いてきたから、ざらざらの線が描ける人、ちょっとうらやましいの。
エマちゃんの絵は、ちゃんと全部そこにある感じがする。私は、そっちがうらやましい。
じゃあ、交換?
交換は、しない。見せ合うだけ。
Nice. じゃあ、見せ合う係ね。
無線機が短く鳴った。エマは一瞬で表情を切り替えて、低い声で二言だけ返した。さっきまで「ないす」と言っていた人と、同じ声とは思えなかった。
入口に、フランス語のお客さん。行ってくる。
いってらっしゃい。
十分後。段ボールの仕切りが、またそっとめくれた。顔だけ出したエマが、小声で手招きしている。
イロハさん、ちょっとだけいい? フランス語のお客さんの女の子がね、「ここの会社の人が、いちばん好きな場面は何色?」って。
……私でいいの?
イロハさんしかいない。
ブースの前には、お母さんと手をつないだ、十歳くらいの女の子が立っていた。手には、表紙の角が丸くなったノート。イロハはしゃがんで、女の子と目の高さを合わせた。
……月白。
エマは一瞬だけ考えてから、女の子に向かって、ゆっくり何か言った。女の子は口の中でその言葉を一度くり返して、ノートに書きつけた。それから顔を上げて、イロハに何か言った。
「わたしのいちばん好きな場面は、赤」だって。
……何の赤か、聞いてもらえる?
もちろん。
女の子の答えは長かった。エマはそれを、途中で区切らずに最後まで聞いてから、短く訳した。
「夕方の、帰り道の赤」。
……それ、いい色。
女の子は手を振って、お母さんと人の流れに戻っていった。イロハは休憩スペースに戻ると、ノートの「月白」の下に「知らない子の、帰り道の赤」と書いた。
さっきの「月白」、フランス語でなんて言ったと思う?
分からない。
「月の白」って、そのまま言った。辞書にある言葉じゃないけど、あの子、すぐ分かってくれた。
……辞書にない言葉のほうが、届くこともあるんだね。
でしょ。言葉は、ちょっとはみ出してるくらいがいいの。
エマが仕事に戻っていく。そのとき、振り返って言った。
イロハさん、パンフレット、逆さまに鞄に入ってるよ。
……知ってる。いつもそうなの。
なんで?
取り出したとき、裏表紙から見えるのが好きだから。……たぶん。
エマは笑って、段ボールの仕切りの向こうへ走っていった。イロハはノートの最後の行に、もう一度「月白」と書いた。その色をどこで使うかは、まだ決めずに、ノートを閉じた。