発表会が終わったロビーで、年配の男の人が一人、ふらついて壁に手をついた。いちばん先に駆け寄ったのは、小さなキャリーを引いた客席の女の人だった。「座ってください。お水どうぞ。ゆっくり息して」。シズカが紙コップの水を持って走り、ミサは人の流れを止めた。
男の人は顔色を取り戻し、家族に付き添われて帰っていった。そのあとミサは、キャリーの女の人を打ち上げに誘った。名前はチアキ。看護師で、今日は遠征の途中だという。窓ぎわの四人席に、衣装を脱いだばかりのイロハが、まだ少し上気した顔で座っている。
さっきのあなた、いい女だったわ。迷わなかったでしょう。
いえ、仕事の癖です。体が先に動くだけで……。
先生の『いい女』、めったに出ないんです。私、三年通ってまだ一回も言われてない。
今日の踊りはよかったわよ。でも、いい女とは別。
では、ミサさんの『いい女』は、どういう方なんでしょう。私、昔から一度うかがってみたかったんです。
そうね。アニメはあまり観ないけど……峰不二子は別。
先生の口からアニメのキャラが出た。……今日、何かの記念日ですか。
茶化さない。昔、テレビでよく流れてたのよ。あの女、ルパンの敵になったり味方になったり、ときどき恋人みたいな顔もする。[1]
モンキー・パンチの漫画とアニメ『ルパン三世』の登場人物。ルパン三世一味の紅一点で、ルパンの敵にも味方にもなる
でも、どっちにつくかは毎回自分で決めてる。欲しいものがはっきりしてて、人のせいにしない。自分を雑に扱わない女は、裏切っても品があるの。
それにね、あの女は歩き方がいいの。八カウントで取れるわよ。一、二で腰が先に出て……
ミサが椅子から半分立ちかけたところで、シズカがそっと袖を引いた。
ミサさん。ここは、ファミレスです。
分かってるわよ。座るわ。
……裏切るのに、品があるんですか。私には、筋がどこかで切れているように思えますけれど。
通ってるのよ、自分の中では。ほら、シズカとはドラマの話がいつもこうなる。
お二人、長いお付き合いなんですね。
どんなに困っても、花さんは子どもの前でまず笑うんです。私は、ああいう方が強いと思います。
地味じゃない? いい女って、もっとこう、立ってるだけで場が変わる人よ。
地味な人ほど、場を変えずに支えているものです。ミサさん、台所に一日立ってみてください。
……言うようになったわね、シズカ。
花さんの笑う顔、私には、薄い菜の花の色に見えます。強いのに、まぶしくない色。
池田理代子の漫画。週刊マーガレットで1972年から1973年まで連載。将軍家の末娘オスカルは、跡継ぎとして男として育てられ、近衛隊の士官になる
剣を持って、自分で選んだ持ち場に立ってる人。女の人だけの劇団の舞台にもなっていて、DVDで観たときは、紙の上の人が生身になる瞬間に、息が止まりました。[3]
宝塚歌劇団が1974年に初めて舞台にし、その後もくり返し上演している
オスカルはね、男の格好をしてるから強いんじゃないの。立つ場所を自分で選んだから強いのよ。
あの舞台の立ち姿は、私も研究したわ。重心が、ずっとかかとの少し前にあるのよ。
……あの、言いそびれていたんですけど。私、振付をなさった昔の舞台、DVDで何度も観てるんです。二幕で、主役が袖に下がる一歩。あそこで毎回、祈るみたいになって。
ミサのフォークが、皿の上で止まった。三秒ほど誰もしゃべらなかった。
……どの舞台の話かしら。
ロビーでお顔を見たときに、気づいていました。今日ここにいるのも、本当はそのせいです。
先生、耳が、熟れた桃みたいな色になってます。
照明のせいよ。……で、チアキさん、二幕の何拍目の話? あとでゆっくり聞かせて。
話は、そこからなぜか美容へ転がった。チアキが夜勤明けのむくみの話をすると、ミサは身を乗り出した。
夜勤明けのまま新幹線に乗ると、着くころには顔が別人になっていて。
スプーンを冷やしておきなさい。目元に当てるの。最終回の前の晩に眠れなかった朝、私はそれで戻してる。
まあ。ミサさん、こっそりそんなことを。完璧に見えるのに。
完璧に見せるのに、手間をかけてるのよ。綺麗でいることは、自分との約束よ。
約束……。私、推しの色はハンカチ一枚にだけ入れるって決めていて。それも、自分との約束みたいなものです。
一枚に絞れるのは、いい女よ。自分との約束を、小さく守れる人だもの。
シズカはチアキのグラスが空なのに気づいて、ドリンクバーから温かいお茶を持ってきた。
チアキさん、昨夜はちゃんと眠れました?
はい、少し。……訂正します。二時間です。
では、パフェの前に、スープも一杯いただきましょう。おなかが温まると、帰りの新幹線で眠れますから。
……私は、映像研の金森氏が好きです。
急に戻したわね。どんな人?
アニメを作りたい二人の横で、お金と締め切りの話を真顔でする人。夢の話をしてる二人を、地面に立たせておく係。私は、ああいう人がいるから絵が動くと思うの。[7]
大童澄瞳の漫画。月刊!スピリッツで2016年に連載開始。女子高生三人のアニメ作りを描き、金儲けが好きな金森さやかは制作の段取りを受け持つ。アニメは湯浅政明監督、サイエンスSARU制作
お金と締め切りの話を真顔で……。ミサさんそのものですね。
失礼ね。……で、準備は? って毎回聞くのは、たしかに私だけど。
それ、いい色。先生の『準備は?』、私の中では、くすんだ金色なんです。
金色、分かる気がします。終演後のロビーの照明みたいな。
私の最初の『いい女』は、祖母の茶道の稽古に通ってきていた、ミサお姉さんでした。
やめて、シズカ。その話は今しなくていいの。
お辞儀の角度を、こっそり真似していたんです。背中に定規が入っているみたいで、子ども心に、あんなふうに座れる人になりたいと思いました。
それで、今日の客席でも、背筋の伸びた人が二人いたんですね。
もう。今日は私が言われる日なの?
言わせてもらうけど、シズカだって、稽古のあとのお菓子をこっそり二つ取ってたでしょう。
……存じません。
ふふ。シズカさんの『存じません』、初めて聞きました。
私の最初のいい女は、母かもしれません。同じ看護師で、夜勤明けでも、朝ごはんだけは必ず作ってくれたので。
結局、いい女って何だったんでしょう。不二子と、花さんと、オスカルと、金森氏。ぜんぜん色が違う。
決めなくていいのよ。違う色が四つ並んでるほうが、舞台は映えるの。
私は、今日のいい女はシズカさんだと思います。ロビーで、誰より先にお水を持ってきてくださったので。
まあ。私は走っただけですよ。走るのは、子どもを追いかけて慣れていますから。
ミサはメニューを開いて、デザートのページで指を止めた。四人の前の皿は、とっくに空になっている。
すみません、パフェを四つ。……スプーンは、冷やしておいてちょうだい。