九時。受付で番号札を受け取ると、ミサは左の足首をかばいながら、長椅子の端に腰を下ろした。背もたれには寄りかからない。背筋を伸ばし、膝をそろえて、顎を少し引く。待合室でいちばん姿勢のいい人に見えた。
二人分の席をあけた向こうに、同じ姿勢の人がもう一人いた。右の手首に、白いサポーター。ふんわりしたカーディガンの下で、背中だけが一本の線のようにまっすぐだった。
向かいの席のおばあさんが二人、交互にミサと、その人を見比べた。
……シズカ?
……ミサお姉さん。
その呼び方、まだやめないの。
小さいころからそうお呼びしているので、ほかの呼び方が見つからないんです。
シズカは一つ席を詰めた。並ぶと、背中の線が二本になった。向かいのおばあさんたちが、なぜか二人とも座り直した。
足、どうなさったんですか。
レッスンで見本を見せて、着地で、ぐきっ。生徒の前でよ。……「今のは悪い見本です」って言って、そのまま最後まで教えたけど。
最後まで。
途中でやめたら、生徒が自分のせいだと思うでしょ。あなたは?
使いすぎ、と言われました。魚をさばいて、洗濯物を絞って、布団を干して。右手ばかり使っていたみたいで。
七人分の家事を、右手一本で回してたら、そりゃ怒るわよ、手首も。
ゲンさんは、今朝、自分が休んで病院について行くと言ったんです。でも、ゲンさんが待合室にいると、たぶん周りの人が全員振り向くので。
声が大きいものね。
それに、泣きますから。私の手首のレントゲンを見て。
ミサの隣の席では、五歳くらいの男の子が、母親の膝にもたれてタブレットを見ていた。イヤホンを片方だけつけている。画面の中では、赤い帽子をかぶった女の子が、段ボール箱を抱えて走っていた。
(小声で)……せっけっきゅう。
はたらく細胞ですね。うちの子たちも、毎週観ていました。
細胞? アニメの?
ある人の体の中で、休みなく働いている細胞たちを、人の姿にしたお話なんです。赤血球さんは、宅配便の配達員みたいに、箱で酸素を運んでいて。[1]
あの赤い帽子も、本物の赤血球の形をまねているそうですよ。[1]
男の子が、ぱっと顔を上げてシズカを見た。それから自分の頭を指さして、小さな声で言った。
ぼうし、まるいの、まんなかへこんでる。
そう、よく見てるわね。
あなた、そういうの詳しいのね。
管理栄養士の勉強をしていたので、体の中のお話は、つい。それに、はじまりのお話が好きなんです。作者の方が学生のころ、高校生の妹さんに、細胞のことを覚えたいから読み切りを一本描いて、と頼まれたのがきっかけだったそうで。[1]
妹のための宿題が、アニメになったの。
誰かのために作ったものは、強いんです。お弁当と同じで。
受付の上の電光板に「8」の数字が点いた。ミサの札は12番、シズカの札は14番。まだしばらくかかりそうだった。
病院が舞台なら、私はドラマのほうね。お医者さん同士の恋と、院長の座と、元恋人の転院。待合室で観るものじゃないけど。
……お医者さんが、患者さんの前で恋をしているんですか。
前じゃないわよ。廊下の角とか、屋上とか。
屋上は、洗濯物を干すところです。
ドラマの屋上は、恋をするところなの。
私は、みんながそれぞれの持ち場で、ちゃんと自分の仕事をしているお話が好きです。はたらく細胞は、そういうお話なので。
仕事しかしない話は、私には甘さが足りないの。誰かが誰かを裏切って、それでもまだ好き、くらいじゃないと。
裏切るのは、筋が通りません。
筋が通らないから、面白いのよ。
向かいのおばあさんの一人が、膝の上で小さくうなずいた。どちらの意見にうなずいたのかは、分からなかった。
……ほんと、昔から、この話だけは合わないわね。
はい。祖母の稽古場で、ミサお姉さんが恋愛ドラマのあらすじを話してくださったときも、私、途中で「その人は、なぜ約束を守らないんですか」って聞いて、困らせましたね。
あなた、六歳くらいだったのよ。正座したまま、真顔で。……あのとき、おばあさまに扇子で背中をとんってされたの、私のほうだった。子どもにする話じゃありません、って。
……それは、存じませんでした。
いまでも、背中を伸ばすたびに、あの扇子を思い出すわ。
あなた、夜は何を観てるの。まさか毎晩、細胞?
夜は、洗濯物を畳みながら、ARIAを流しています。火星が水の惑星になった未来のお話で、ヴェネツィアの街並みを再現した街があって、ゴンドラで観光客を案内するお仕事の女の子が主人公なんです。[2]
ヴェネツィアなら、若いころ撮影で行ったわ。橋が多くて、ヒールで歩く場所じゃなかった。……で、その子は恋をするの?
さあ。私、すぐ内容を忘れてしまうので、毎晩初めて観るような気持ちで観ているんです。ただ、観ていると、洗濯物を畳む手が、少しだけゆっくりになります。
毎晩初めて観られるなんて、それ、いちばん贅沢な観方よ。私なんて、最終回の前の夜は眠れないのに。
気がつくと、畳みかけのタオルを握ったまま、朝なんです。
それは贅沢じゃなくて、疲れてるの。
電光板が「10」に変わった。シズカは、サポーターを巻いた手首を、膝の上でそっと撫でた。
病院って、少し懐かしいんです。学生のころ、実習で病院の厨房に入っていましたから。
そうだったわね。
ほんの短いあいだだけ、なんです。早くに結婚したので。ちゃんと外で働いた年数は、ミサお姉さんの何分の一もありません。それが、ときどき、少しだけ……。
ミサは、シズカのほうへ体ごと向き直った。足首をかばうのも忘れていた。
シズカ。七人分の三食とお弁当を、栄養も量も味も落とさずに、何年回してるの。
……ええと。
数えなくていいわ。それは、私のどんな仕事より長いの。お給料が出ないだけで、年数はちゃんと積まれてる。あなたの台所は、職場よ。
……あとね、手首を壊すまで働くのは、職場としては最低。そこは直しなさい。
シズカは、少しのあいだ黙っていた。それから、いつものおっとりした声で言った。
……甘さと厳しさが、一つの文に入っていますね。昔から。
褒めてるのよ、これでも。
存じております。
「12番の方、どうぞ」。ミサは立ち上がり、足首をかばいながらも、背筋だけは伸ばしたまま診察室へ歩いていった。
待っているあいだ、シズカは男の子と並んで、タブレットの画面をのぞいていた。血小板の小さな子たちが、一列になって歩いている。シズカは、口の中で小さく「がんばって」と言った。
十分ほどで、ミサが戻ってきた。左足首には、さっきより厚いサポーターが巻かれている。
軽い捻挫。二週間、跳ぶの禁止だって。……二週間、ドラマ観放題よ。
それでしたら、ミサお姉さん。うちにいらっしゃいませんか。海の町なので、ドラマの屋上はありませんけど、物干し台ならあります。ゲンさんの獲ってきたお魚も。
行くわ。ゲンさんの泣き顔も見たいし。……そのかわり、あなたが包丁を握るのは禁止。私が切る。
ミサお姉さん、お魚、さばけましたか。
……動画で覚えるわ。
「14番の方」。シズカが立ち上がると、男の子が手を振った。シズカは、サポーターを巻いていないほうの手で、小さく振り返した。
けっしょうばん、がんばって。
はい。がんばってもらいます。
診察室の扉が閉まった。ミサは長椅子に戻り、背もたれに、今日初めて寄りかかった。それからスマホを出して、ハルに一行だけ送った。「シズカの家に、二週間のうち三日だけ行ってくる。魚のさばき方、知ってる?」