寝床の話になると、ルカとナギは不思議と話が合います。ある日の休憩中、ナギが「ルカって、眠れない夜ある?」と聞きました。ルカは少し考えてから、「長くなりますが」と前置きして話し始めました。
空調の音だけの個室
ルカって、眠れない夜ある? いつも毛布をきちんとたたんでるから、ちゃんと眠れる人なんだと思ってた。
いまは、おおむね眠れています。ただ、ネットカフェで暮らし始めて最初の冬は、ほとんど眠れませんでした。少し長くなりますが、よろしいでしょうか。
うん、いいよ。長くて大丈夫。
個室というのは、壁が天井まで届いていないのです。夜中になると、隣の方の寝息や、遠くでドリンクを注ぐ音が聞こえてくる。それもやがて静かになって、最後に残るのが空調の音でした。ごうっという低い音が、一晩中、同じ高さで続くのです。
あの音、昼間は気にならないのにね。夜中に一人で聞くと、急に大きく感じる。
まさにそうでした。午前二時を過ぎたあたりから、その音しか聞こえなくなる。そうなると、考えたくないことばかりが浮かんでくるのです。
夜になると戻ってくるもの
考えたくないことって、そのときの仕事のこと?
それもありました。冬は仕事が少なくて、手元のお金が減っていくのが目に見えていましたから。けれど、いちばん重かったのは、もっと昔のことです。以前いた場所を出ることになったとき、身に覚えのない噂が広まって、私が何を言っても、聞いてくださる方は一人もいませんでした。
……それは、つらいね。
昼間は忘れていられるのです。配達の道順や、受け取る方へのご挨拶を考えていれば。でも夜中に空調の音を聞いていると、あのときの場面が、何度も頭の中で巻き戻される。あのとき、もっと上手に説明できていたら、と。最後に見た空の色まで、妙にはっきり思い出してしまうのです。
私も、何も入ってこない夜があったな。日曜の夜中に画面の前に座ってて、音は聞こえてるのに、言葉が頭の外を流れていくの。ルカのとは重さが違うかもしれないけど。
いえ、重さを比べる必要はないと思います。眠れない夜は、どれも長いですから。
眠れないまま、次の日も仕事に行ってたの?
行っていました。朝の六時ごろに個室を出て、外の冷たい空気を吸うと、少しだけ頭がはっきりするのです。いちばん安いパンを一つ買って、歩きながら食べて、その日の仕事の場所へ向かう。ただ、寝不足のせいで、ただでさえ遅い仕事がさらに遅くなりました。道を一本間違えるたびに、自分はどこへ行っても役に立たないのではないか、と考えてしまう。そういう冬でした。
寝不足のときって、小さい失敗がぜんぶ大きく見えるよね。ルカのせいじゃなくて、眠れてないせいだよ、それ。Interpretation
……あのころの私に、その言葉を届けたかったですね。
手元にあった一冊
そのとき、何を読んでたの?
『Re:ゼロから始める異世界生活』です。新しい本を買う余裕はあまりなかったので、手元にあった巻を、何度も読み返していました。同じ巻を、ひと冬のあいだ、ずっと。
KADOKAWAの作品ページのあらすじでは、コンビニ帰りに突然異世界に召喚された高校生・菜月昴が、召喚者もいないまま、物盗りに襲われて早々に命の危機を迎える、と紹介されています。第1巻の発売日は2014年1月24日です。Fact[1]
召喚されたのに、呼んだ人がいないんだ。
そうなのです。誰も待っていない場所に、いきなり放り出される。そこから、誰にも分かってもらえないまま、それでも立ち上がろうとする。読んでいて楽しい話ではありません。胸が痛む場面も多い。けれど、あの冬の私には、その痛さがちょうどよかったのです。Interpretation
分かってもらえなくても朝は来る
どこが、いちばん効いた?
主人公が、誰にも分かってもらえないまま、次の朝に向かっていくところです。分かってもらえないことと、今日を始めることは、別々にしていい。あの物語を読んでいると、そう言われている気がしました。私はずっと、まず分かってもらわなければ、前に進んではいけないと思いこんでいたのです。Interpretation
分かってもらうのを待ってたら、ずっと止まったままになっちゃうもんね。Interpretation
ええ。弁明を聞いてもらえなかったことは、いまでも悔しいです。許してもいません。ただ、その悔しさを抱えたままでも、明日の朝、配達の鞄を背負って出かけることはできる。それに気づいてから、少しずつ眠れる夜が増えていきました。
同じページを何度でも
同じ巻を何度も読むのって、飽きなかった?
不思議と飽きませんでした。むしろ、展開を知っているから安心して読めたのです。この先でつらいことが起きるのは分かっている。でも、そのあとで主人公がもう一度立つことも分かっている。だから、怖い場面の手前で本を閉じて、翌晩、立ち上がるところから読み直す。そういう読み方をしていました。
それ、いいね。全部を一晩で受け止めなくていいんだ。Preference
はい。それに、主人公はよく軽口を叩くのです。夜中にそれを読んで、思わず吹き出しそうになったことが何度かありました。あの冬、笑いそうになったのは、たぶんあの本の中だけです。……もっとも、私は人前で大笑いするわけにいかない事情がありますので、個室でも毛布をかぶってこらえていましたが。
ふふ、毛布かぶって笑いこらえてるルカ、ちょっと見てみたい。
それは、ご勘弁ください。設備上の問題がありますので。
いまの小さな習慣
いまは、眠れない夜ってどうしてるの?
一つ、変えたことがあります。あの冬、私は受付の方に、毛布をもう一枚お願いすることができませんでした。ご迷惑ではないか、どうお願いすれば失礼にならないか、考えているうちに朝になってしまって。いまは、寒ければ寒いと言うようにしています。言葉を選ぶのに、まだ少し時間はかかりますが。
それ、すごく大事なことだと思う。助けてって言えるの、ちゃんと自分の寝床を守ってるってことだよ。Interpretation
ありがとうございます。それから、眠れない夜には、いまでもあの巻を開きます。全部は読みません。主人公が立ち上がる数ページだけ。それを読んで、毛布をたたみ直して、横になる。それだけで、空調の音が少しだけ小さく聞こえるのです。
眠れない夜は、同じページを何度読み返してもいい。寒ければ、もう一枚の毛布を頼んでもいい。分かってもらう前に、今日を始めてもいいのです。