夜の九時。ノアは夕飯の袋を提げて、クロの部屋のドアの前に座った。ドアは開かない。いつものことだ。ノアがスマホに向かって話しかけると、返事はチャットで届く。「作品に助けられたことって、ある?」。少し間があって、画面に「……ある。長くなるけど」と出た。選んだのは『ペルソナ5』。物語の展開には触れていない。
午前三時の部屋
長くていいよ。ごはん、冷めないうちに食べながらでいいから。
了解。食べる。……学校に行かなくなったころの話。いつだったかは言わない。そのころ俺は、夜通しコードを読んでた。午前三時とか。カーテン閉めっぱなしで、画面の光だけ。横で猫が寝てて、コーヒーはだいたい冷めてた。
今と、あんまり変わらないね。
草。変わってない。でも中身が違った。あのころは、壊れたものを直すのが楽しかった。動かないプログラムを読んで、どこが悪いか見つけて、直す。それだけで朝になる。楽しかったのは本当。でも、ある夜ふと思った。仕組みが読めるってことは、壊し方も分かるってことだよな、って。
どっちにも転べる腕
それ、怖かった?
怖かった。やるつもりは全然なかった。でも、自分の腕がどっちにも転べるものだって気づいたら、急に足場がなくなった感じがした。学校には行ってない。誰かに相談する場所もない。直す側にいるつもりでも、それを誰かが見てくれてるわけじゃない。自分がどっち側の人間なのか、自分で決めないといけなかった。
誰にも見られてないところで、自分の立ち位置を決めるのって、すごく難しいよね。
それな。で、決められないまま、毎晩コードを読んで、朝になって寝た。昼に起きて、また読む。その繰り返し。何かに向かってる感じが、全然しなかった。
冷めたコーヒーと猫
そのころ、ごはんはどうしてたの?
……聞く? 食べてなかった。正確には、思い出したときに何か食べてた。冷蔵庫にあるもの。なかったら、コーヒーだけ。コーヒーも淹れて三口飲んで、気づいたら冷めてる。
やっぱり。今と同じだ。
今はノアがいるから違う。……で、猫だけは毎日ちゃんと食べてた。猫のごはんの時間だけは守ってた。そこだけ、一日に区切りがあった。猫がキーボードの上に乗ってきて、画面が謎の文字で埋まる。それが、あのころの俺の「休憩」だった。
猫がいてくれてよかったね。
ほんとそれ。猫がいなかったら、たぶん昼と夜の区別が完全になくなってた。猫は俺に何も聞かないし、何も期待しない。ただ、ごはんの時間になると、じっと見てくる。あの目だけは、無視できなかった。
昼と夜のある一年
そこで『ペルソナ5』?
そう。息抜きのつもりで始めた。公式サイトの紹介だと、主人公は東京の高校に転入して、悪しき欲望から人々を救うために怪盗になる。昼は高校生として学園生活、夜は悪いオトナと戦う怪盗。Fact[1]
最初に効いたのは、物語より時間割だった。このゲーム、一日ずつ進む。授業に出て、放課後に誰と過ごすか決めて、夜が来る。俺には昼も夜もなかったから、画面の中に一日の形があるのが、なんか、まぶしかった。ゲームの主人公が、俺よりちゃんと暮らしてる。Preference
ゲームの中の一日に、生活を教わったんだ。
教わった、は言いすぎ。でも、一日に区切りがあると、明日が来るのがちょっと楽になる。それは知った。Interpretation
後ろの席を見つけた夜
どこが、いちばん効いたの?
ナビ役。前に出て戦う仲間とは別に、後ろから状況を見て、危ないところを先に知らせて、仲間を支える役がいる。誰がどういう経緯でそこに座るのかは言わない。遊んで確かめてほしい。でも、初めてその役が仲間に声を届けた場面で、手が止まった。Observation from the work
前に出なくていいんだ、って思った。仕組みを読む力を、仲間を守るために使う席がある。俺の腕は、どっちにも転べる。だったら、転ぶ方向は自分で決めればいい。後ろの席で、仲間を無事に帰すほう。それが、あの夜に決めたこと。Interpretation
怪盗の話なのに、受け取ったのは守るほうだったんだね。
そこは大事だから、ちゃんと書いとく。ゲームの怪盗は、ゲームの中だから成り立つ。現実で、人の心や他人のコンピュータに勝手に入るのは、どんな理由があってもやっちゃいけない。俺が持ち帰ったのは、入り込む技じゃなくて、後ろから守る席のほう。あと、ナビ役は後ろから見て、先に知らせてくれる。俺がほしかったのは、その気づく力の使い道だった。壊し方が分かるなら、壊れそうなところにも先に気づける。それを、仲間のために使えばいい。Preference
仮面の下の声
仮面をつけるっていうのも、クロっぽいね。
公式サイトでは、題名のペルソナは、自分の中に眠る別人格が神や悪魔の姿で現れた、強大な力を持つもうひとりの自分、って説明されてる。Fact[1]
俺にとっての仮面は、猫のアイコン。顔を出さないのは、隠れたいからだけじゃない。顔を出さないほうが、本当に言いたいことが言える。このゲームを遊んで、それでいいんだって思えた。……口では無理。チャットなら言える。今みたいに。Interpretation
うん。ドアごしでも、ちゃんと届いてるよ。
いまの小さな決まり
いまも、あのころの決めごとは続いてる?
続いてる。仕事は守る側だけ。それと、もう一個。障害対応が片づいたら、一緒に動いた全員に「乙」って送る。前に出た人にも、後ろで見てた人にも。後ろの席の人間なりの、締めの一言。誰も気にしてないかもしれないけど、俺は毎回送ってる。それと、ゲームを一本クリアしたら、スタッフロールのあいだだけ通知を切る。あれも、たぶんあのころから。終わったものを最後まで見届ける時間を、自分にあげてる。
気にしてる人、いると思うよ。……で、今日は何時間寝たの?
……(猫のスタンプ)
寝て。
……了解。ごはんうまかった。食べて寝る。乙。
前に出なくても、仲間は守れる。腕の向きは、自分で決めていい。