空の端が白くなりはじめたころ、土手の上を二つの足音が行く。前を行くトウゴは、首に巻いたタオルの端を風になびかせている。三歩うしろのハヤテは、口を固く結んで、前の背中の揺れだけを見ていた。首の鍛え方を聞いたのは先週のことだ。答えの代わりに、翌朝の五時半に土手へ来いと言われ、それから毎朝ここにいる。
最初の朝、トウゴは走り出す前にしゃがみこんで、ハヤテの靴ひもを見た。ほどけかけていた片方を、何も言わずに二重に結び直し、結び目を指で一回引いて確かめてから立ち上がった。それ以来、ハヤテは家を出る前に、自分で二重に結んでくる。
腕、振れてるぞ。初日より、ずっといい。
……ありがとう、ございます。でも、トウゴさん、一つだけ聞いていいですか。
おう。
首の話を聞いたのに、毎朝、脚ばかり使っている気がします。
ははっ、気づいたか! 首だけ太いやつなんて、いないんだ。首は、肩と背中と腰の上に乗ってる。土台がぐらぐらだと、首だけ鍛えても、どこかで持っていかれる。だからまず走る。首は、そのあとだ。
トウゴさんは、いつから毎朝走っていますか。
高校の山岳部からだ。けど、うちのほうは冬になると雪で道が埋まる。走れない朝は、長靴で家から道まで雪を踏み固めた。往復するうちに、ちゃんと人が通れる道になる。それが冬の走り込みの代わりだった。
それで、脚が強くなったんですか。
そうなるな。雪を踏むのは、走るよりよっぽど脚にくる。おかげで、脚だけは兄貴たちに負けなかった。
向こうから、犬を連れた年配の男が歩いてくる。トウゴが短く頭を下げると、男も片手を上げた。毎朝すれ違ううちに、言葉を交わさない挨拶だけができあがったらしい。ハヤテも、少し遅れて頭を下げた。
水門が見えてきた。コンクリートの階段の前で、トウゴは足をゆるめ、振り返らずに片手を上げた。止まれ、の合図だった。
ここで歩きに変える。息を整えてから、首だ。
はい。
階段の段に並んで腰をおろす。トウゴは首のタオルをほどき、ハヤテの後頭部にかけて、両端を本人に持たせた。
タオルを前に引け。首は、その分だけうしろへ押し返す。動かさなくていい。押し合ったまま、ゆっくり十数えろ。痛かったら、すぐやめる。
動かさないのに、効きますね。もう、首の横が熱いです。
そうだ。俺たちの仕事は、ヘルメットにライトをつけて、上を見たまま何十分もロープを扱うことがある。首は、動かすより、同じ形で耐えてる時間のほうが長いんだ。
消防に入った最初の年なんか、ヘルメットをかぶった訓練の次の朝、首が回らなくなった。先輩に、振り向くときは体ごと回れって笑われたよ。……で、ハヤテのは、どういう重さなんだ。カートの首ってのは。
横から来ます。カーブに入ると、頭がヘルメットごと外へ持っていかれる。カートでいうと、コーナーのたびに、誰かに横から頭を押されている感じです。一周で何回もあるので、レースの後半になると、首が先に音を上げて、視線が下がってしまう。視線が下がると、ブレーキの場所が見えなくなります。
長くていい。そういうのを聞きたいんだ。目線を保つための首か。いいな、それ! なら、横向きのもやろう。タオルを右から引いて、首で左へ押す。逆も同じだけな。
右に十、左に十。トウゴは数を声に出さず、ハヤテの肩が上がっていないかだけを見ていた。肩が上がりかけると、指で一回だけ、とんと叩く。それで下がる。
毎日少しずつでいい。最初の日に張り切りすぎると、次の朝、首が回らなくなる。それは俺がもうやった。
はい。毎朝、少しずつにします。タイヤの慣らしと同じだと思っておきます。
トウゴさんは、走りながら、ときどき道の端を見ていますよね。何を見ているんですか。
消火栓の標識だ。赤い丸のやつ。走るついでに、どこに水があるか覚えておく。この土手の下の道なら、もう全部言える。
……コースを、頭の中で一周するのと似ています。僕はブレーキの場所を覚えて、トウゴさんは水の場所を覚えている。
似てるな。覚えてる場所が多いほど、いざってときに速く動ける。そうだ、それで思い出した。借りてた一巻、読んだぞ。
『capeta』ですね。どうでしたか。
曽田正人さんの、カートとレースの漫画だな。主人公は、平勝平太。みんなにカペタと呼ばれてる、小学四年の男の子だ。親父さんと二人で暮らしてる。その親父さんの仕事が、道路の舗装なんだな。舗装の仕事でカート場に行って、そこで捨てられてた部品を集めて、息子に最初のカートを組んでやる。[1]
『月刊少年マガジン』で2003年に連載開始
新品の部品なんか一つもない。それでも、ちゃんと走る一台になる。救助の道具も同じでな、きれいかどうかより、いざってときに動くかどうかなんだ。
はい。そこから全部が始まります。
トウゴさんなら、子どものころ、最初に何を組みましたか。
ソリだな。兄貴たちと、納屋の板を打ちつけて作った。曲がらないし、止まらない。三回目で田んぼの畦に突っこんで、ばらばらになった。
ブレーキが、無かったんですか。止まれないのは、怖いです。カートでも、最初に教わるのは止まり方なので。
無かった。だから次のは、足で止められるように、前を短く作り直した。ははっ、いま思えば、あれが俺の最初の段取りだ。
俺が引っかかったのは、そこの、舗装のほうだ。道を作る人の息子が、道の上で速くなっていく話なんだと思った。速く走るやつの足もとには、先に道を作ったやつがいる。
僕は何度も読んだのに、そっちは考えたことがありませんでした。舗装の人の話だとは、思っていなかったです。
仕事の癖だな。救助の現場でも、最初にやるのは道を作ることなんだ。崩れた物をどけて、入る道と、出る道をつくる。助けるのはそのあとだ。出る道のない現場には、人を入れられない。
サーキットも、誰かが朝早くに路面を見て回ってから、僕らが走ります。走る人には、その時間は見えないんですけど。
見えなくていいんだ。見えないくらい当たり前に、道があればいい。……この土手だってそうだ。毎朝ここを走れるのは、誰かが草を刈って、段を直してるからだ。
僕は、ふだんの道では、自分の速さを出さないと決めています。いまの話で、その決まりに少し意味が増えました。
増えたなら、借りた甲斐があった。二巻も貸してくれ。親父さんが、あのカートのあとどうするのかが気になる。
明日、持ってきます。……それと、トウゴさんの好きな、山の映画も、今度観てみます。
おう。観たら、どこで首にきたか教えてくれ。
トウゴは、川に下りる道の角に立つ消火栓の標識が、少し傾いているのに目を留めた。スマホで一枚だけ写して、また前を向いた。
それと、ハヤテ。今朝は一回も、走りながら顎が上がらなかったぞ。
本当ですか。自分では、分かりませんでした。
首は、ちゃんと土台に乗ってきてる。この調子で一か月続いたら、タオルのほかに、首の練習をもう一つ増やそう。
……はい。それまでに、もう少し速く走れるようにします。
速くはならなくていい。顔が前を向いたまま帰ってこられれば、それで十分だ。首は、そのために鍛えるんだからな。
東の空が橙に変わり、川面に光の線が一本走った。トウゴは階段から立ち上がると、リュックから包みを二つ取り出し、一つをハヤテの手に乗せた。中身は、塩むすびだった。トウゴの分は、ハヤテのより一回り大きかった。
走ったら、食え。学校で寝るなよ。
……寝ては、いないです。目を閉じて、一周しているだけで。
ははっ、同じことだ! ほら、帰りも走るぞ。明日も五時半な。
ハヤテは塩むすびを半分かじってから、包みを丁寧に折ってポケットにしまい、前を行く背中を追って走り出した。首の横が、まだ少し熱かった。土手の下の道では、新聞を配るバイクが、二人を追い越さないようにゆっくりと角を曲がっていった。