六時間目の「職業の話を聞く会」が終わると、廊下は部活へ向かう足音でいっぱいになった。図書室だけが、いつもの静けさに戻っている。カウンターの内側で、図書委員のリリィは返却された本に一冊ずつ日付の印を押していた。
入口の引き戸が、そっと開いた。首から来校者の名札を下げたノアが、棚の背表紙を眺めながら入ってきた。
帰る前に、図書室だけ見せてもらうことにしたの。学校の図書室って、その学校の人が何を読んでるか、いちばん正直に出る場所だから。
ノアさん。……講話、すごかったです。体育館のいちばん後ろまで、ちゃんと聞こえてました。
Thank you. でもリリィ、質問の時間、ずっとノートを見てたでしょう。
見えてたんですか。……聞きたいことはあったんです。でも、手を挙げようとしたら、ほかの人の質問が始まって、そのまま終わっちゃいました。
じゃあ、いま聞いて。ここなら時間はある。
リリィは印を置いて、ノートを開いた。表紙には「説明できないことノート」と書いてある。ページの端に、青い字で一行だけ。
「いろんな国を回っていて、最初に好きになった本と、いまの仕事はつながってますか」。……これです。
いい質問。答えは、つながってる。ただ、まっすぐじゃなくて、図書室を一回経由してる。
高校のころ、映画でハウルの動く城を観て、原作があるって知って、図書室で借りたの。そしたら、知ってるはずの人たちが、知らない調子でしゃべってた。同じ人なのに、声が違う。それがすごく面白かった。
それ、うちにもあります。……ちょっと待ってください。
リリィはカウンターを出て、海外の物語の棚の前まで小走りで行き、すぐに一冊を抱えて戻ってきた。走らない、と書かれた貼り紙の前を、少しだけ早歩きで。
魔法使いハウルと火の悪魔。ダイアナ・ウィン・ジョーンズの小説で、本国で出たのは1986年、日本語の本は1997年です。映画になったのは2004年。[1]
それでね、ここ。この本、ジョーンズさんがある学校に呼ばれて、生徒たちと話をしていたときに、男の子が一人「動く城の話を書いてください」って言ったのが、生まれるきっかけだったんです。[1]
ノアは本を受け取りかけた手を止めて、リリィの顔を見た。
……学校に呼ばれた人に、生徒が一個、お願いをした。今日の私と、同じ形だね。
そうなんです。だから、さっき手を挙げられなかったの、ちょっと悔しくて。もし聞いてたら、何かが一冊ぶん、生まれてたかもしれないのに。
I think……質問はね、聞いた日に答えが出なくてもいいと思う。その男の子も、本ができたのを知ったのは、たぶんずっとあとでしょう。
……そっか。じゃあ、私の質問も、まだ途中ってことにしておきます。
リリィはノートを持ち替えて、赤いペンで何か書き足した。調べて分かったことは青、こうだったらいいなは赤。そう決めているのは、ノアも知っている。
主人公のソフィーは、帽子屋の三人姉妹のいちばん上で、十八歳。おとぎ話では一番上の子が運試しに失敗するって信じこんでる。……私はね、最初に読んだとき、そこがいちばん好きだった。[1]
始める前から、うまくいかないほうに決めてるところ……ですか。
そう。決めてる人の話し方って、映画だと表情で分かるけど、本だと言葉の選び方で分かる。それが、同じ人なのに声が違って聞こえた理由だったのかも。
……ダンス教室で、最初の一歩が出ないとき、私もたぶん、ソフィーと同じ顔をしてます。ミサ先生は、一歩目が出なくても、出た一拍のほうを先に褒めてくれるんですけど。
その先生、いいね。
リリィは本をカウンターに置いて、少しためらってから、声を小さくした。
あの……私、前に、友達が映画の感想を話してくれたとき、原作と違うところばっかり言っちゃったことがあって。友達、途中で話すのをやめちゃったんです。違いを見つけるのって、意地悪なんでしょうか。
違いを見つけるのは、私の仕事のほとんど。意地悪じゃないよ。
ただ、順番があると思う。私は、同じだねって言いたくなったら、先に手帳の端に違うところを書く。でも、口に出すのは、相手の好きなところを聞いてから。違いは、手帳が先に預かっておいてくれるから。
手帳が先に預かる……。ノートに書きます。これは青のほうで。
ねえ、ここ。もう一つ聞いてもいいですか。ノアさんが、いちばん最初に好きになった本は何ですか。
モモ。子どものころ、読んでもらう時間が好きだった。ドイツのミヒャエル・エンデが書いた児童文学で、1973年に出た本。[2]
町はずれの円形劇場の跡に、モモっていう小さな女の子が住みついて、その子には、人の話を聞いてあげる才能がある。[2]
話を聞く才能……。じゃあ、今日のノアさんは、モモと反対の役でしたね。体育館で一時間、ずっと話す人。
そう。だから少し疲れた。……次は交代しよう。リリィが話して、私が聞く。
えっ、私が。何を話せば……あ、でも、話したいことなら、棚三つぶんくらいあります。
棚三つ。It's enough. 十分すぎる。
あ、それと、講話のとき、外国のお客さんとの話を英語で再現してたの、かっこよかったです。ノアさんって、何か国語くらい話せるんですか。
ちゃんと話せるのは、日本語と、仕事で困らないくらいの英語だけ。ほかの国の言葉は、挨拶と、ありがとうと、本屋はどこですか、くらい。
本屋はどこですか、は必ず覚えるんですね。
Of course. それさえ言えれば、だいたいの町で一日は過ごせるから。
リリィは笑って、ノートの赤いページに「本屋はどこですか、を十か国語で」と書いた。それから、少し遠くを見るような顔をした。
小さいころ、おばあちゃんと近くの図書館に通ってて、絵本の中の小さな扉とか窓を探すのが好きだったんです。どのページにも、どこかに入口がある気がして。
いまも探してる?
探してます。……この図書室だと、あの棚の一番下の段が、いちばん扉っぽいです。誰も屈んで見ないので。
じゃあ、帰る前にそこだけ見ていく。リリィの扉。
そのとき、天井のスピーカーから下校のチャイムが鳴った。リリィは本の背を指でなぞったまま、顔を上げなかった。
リリィ。チャイム。
……えっ。あ、鳴ってました。返却ボックスの横にいると、いつも気づかないんです。
ノアは笑って、名札を外した。来校者は本を借りられない。リリィは少し考えてから、カウンターの引き出しから、おすすめカードの白紙を一枚取り出した。図書委員が一冊ずつ書いて、本に挟んでおくカードだ。
ノアさんが借りられないなら、この本に、ノアさんの言葉を挟んでおいてもいいですか。次に借りる人のために。
いいよ。何て書く?
「この本は、学校に来た人への、一つのお願いから始まりました。あなたにも、聞きたいことがあったら」。……どうですか。
Perfect. ……その下に、小さく「質問は途中でもいい」って足して。
カードは、ソフィーの名前が初めて出てくるページに挟まれた。ノアは図書室を出る前に一度だけ振り返り、手帳の端に一行書いた。「図書室は、学校でいちばん正直な場所。そこにいる子は、質問を一冊ぶん持っている」。リリィはそれを知らないまま、閉館の札を、入口の引き戸にそっと掛けた。