午後三時半、二人は登山口に下りてきた。ゲンは頂上の茶店で団子を二皿たいらげ、帰りの坂ではトウゴの三歩うしろで、ずっと海の歌を口ずさんでいた。バスまで一時間ある。登山口の前の食堂に入ると、ゲンは冷蔵ケースから缶ビールを一本と、烏龍茶の瓶を一本取って、烏龍茶のほうを先にトウゴの前へ置いた。
聞く前に置いといた。お前は、どうせこっちだ。
ありがとうございます。ゲンさん、今日は最後まで足が止まりませんでしたね。
団子が待ってると思えば、坂なんか平気だ。よし、乾杯だ。
缶と瓶が軽く当たった。ゲンは一口だけ飲んで缶を置き、日に焼けた顔をトウゴに向けた。
それにしても、昼の握り飯、俺の分だけ倍あったな。全部食ったぞ。
ゲンさんの腹の減り方は、前から計算に入れてました。水を多めに持ってきたのも、正解でした。
段取りの男か、お前は。おかげで、頂上の団子まで腹がもった。
で、トウゴ。こないだの、一人でエベレストに登る男の映画な。あの男の話、まだちゃんと聞いてねぇぞ。
羽生丈二ですね。……話すと長くなりますよ。それに、最後のほうまで話さないと、俺がどこを好きなのか、うまく言えないんです。
全部言っていいぞ。俺は泣く場面を先に知ってたほうが、安心して観られるたちでな。どうせ観たら泣く。
じゃあ、ネタバレ込みでいきます。先のほうは、ひと区切りずつ話しますから。
フランスで作られたアニメ映画です。日本では、吹替で劇場にかかりました。俺は救助隊に移って間もないころに、映画館で観ました。[1]
2021年にフランスで公開。日本では2022年7月に日本語吹替版で劇場公開
トウゴは割り箸の袋を細く折りながら、言葉を選んでいる。山の上でも、こういう顔をしているのだろう、とゲンは思った。
最初に羽生が出てくるのは、ネパールの町です。カメラマンの深町が、ある男が古いカメラを手にして去っていくのを見る。そのカメラは、エベレストに最初に登ったかもしれない登山家、マロリーのものかもしれない。その男が、何年も前に姿を消していた羽生でした。[2]
最初から後ろ姿か。かっこつけた出かただな。
そうなんです。顔より先に背中を見せる。俺はそこでもう、この人の話になるんだなと思いました。現場でも、要救助者を探すときは、まず背中と足もとを見るんです。どっちを向いて、どこへ行こうとしてるか。羽生の背中は、山のほうだけを向いてました。
背中で行き先が分かるってのは、船でも同じだな。沖を見てるやつと、港を見てるやつは、甲板に立ってるだけで分かる。
深町はそこから、羽生がどんな人間だったのかを調べはじめます。山にとりつかれたような人で、登る腕は飛び抜けてる。なのに、山の会の中では好かれていなかった。我が強くて、人を寄せつけない。そのうち、一人で登る人になっていきます。[2]
仲間に好かれねぇ山の男か。船の上なら、そういうのがいちばん扱いに困る。
困ります、現場なら。けど羽生は、山のことだけは一つも手を抜かない。俺は勤めがあって、当番があって、休みの日に山に行く。羽生は、山にとりつかれて、それ以外を全部削っていく人に見えました。正直、最初は好きになれるか分かりませんでした。
でも、気づいたら目で追ってました。羽生は、体の使い方に嘘がないんです。山に入る前の支度のときの手つきとか、足の置き方とか。言葉は少ないのに、何をしようとしてるかは全部、体に出てる。俺はそういう人に弱いんです。
それに羽生は、山の登り方そのものを、自分で決めたい人に見えました。頂上に立つことより、どう登るかのほうが大事そうだった。
誰も網を入れたことのねぇ場所に、一人で船を出すみてぇなもんか。
たぶん、そうです。救助は逆で、誰かが通った線を、なるべく確かな線にして使うのが仕事なんです。だから余計に、目が離せなかったのかもしれません。
しゃべらねぇで、手で分からせるやつか。うちの親父がそれだ。網の直し方なんか、一回も口で教わったことがねぇ。
ここから、羽生の昔の話になります。一つ目、区切りますね。
Up to midway中盤の展開その1Tap to open
トウゴ「羽生には、山の会の後輩がいました。岸文太郎という若いのです。岸は、自分も一緒に登りたいと羽生に頼みこむ。その登攀の途中で、岸は落ちて亡くなります」
トウゴ「そのことがあってから、羽生はますます一人になっていく。誰とも組まずに、一人で危ない山に向かうようになる」
トウゴ「ロープで組むっていうのは、相手の命を自分の体で預かることです。俺たちも訓練で毎日やります。だから、あの事故のあとに羽生が一人を選んだのが、俺には逃げには見えないんです。もう誰の命も、自分のロープの先にぶら下げたくなかったんじゃないか。俺はそう観ました」[3]
……ロープで組む、ってのは、つまり何だ。分からん! 船で言うと、命綱を二人で一本にしてるってことか?
そうです。片方が落ちたら、もう片方が体で止める。止められなければ、二人とも持っていかれます。
そりゃ重てぇな。一人のほうが楽だって思う日も、あるわけだ。
楽じゃないです。一人のほうが、ずっと怖い。羽生はたぶん、その怖さのほうを自分で背負うことにしたんです。俺の好きな作品は、たいてい仲間で何かを運ぶ話なんですが、この映画だけは、一人で背負う人の話なんです。
救助隊に移った最初の冬に、訓練の壁で、初めて一人で後輩の確保をしたんです。ロープの先にいるのは、まだ慣れてない若いのでした。そいつが途中で足を滑らせた瞬間、腰のロープがぐっと重くなった。止まったのは一瞬です。止まったあとで、手のひらが汗でびっしょりになってました。
止めたんだな。
止めました。そいつは笑って登り直しましたけど、俺はその日の夜、なかなか寝つけなかった。あの重さを一回知ると、羽生が一人を選んだ気持ちも、少しだけ分かる気がするんです。分かるのと、同じことをするのは、別ですけど。
深町のほうも、だんだん羽生に取りつかれていきます。ここ、二つ目に区切ります。
Up to midway中盤の展開その2Tap to open
トウゴ「深町は、羽生を探して、もう一度ネパールへ渡ります。そして、エベレストに近い山小屋で、とうとう羽生を見つけ出す」
トウゴ「何年も山の向こうに消えていた男と、それを追ってきた男が、やっと向かい合う。俺はここで、深町の足腰を心配してました。追いかけるほうにも、それだけの体が要るんです。山の取材に来ただけの人が、あそこまで行く。好きって、怖いなと思いました」[3]
追いかけてきた男か。そいつも相当なもんだ。
相当です。羽生の話なのに、俺はときどき、深町のほうに自分を重ねてました。俺も、山の映画を観ると、気づいたら翌朝その辺の山を走ってるので。
で、羽生がやろうとしてるのが、冬のエベレストを、たった一人で登ることです。深町はそれを写真に残したくて、ついて行かせてくれと頼みます。ここから三つ目です。
Up to midway中盤の展開その3Tap to open
トウゴ「羽生は最初、深町を突っぱねます。それでも深町は引かない。最後に羽生は、深町がうしろからついて来て撮ることを許します。ただし条件つきです。それぞれが自分だけで登る。どちらも、相手に手を貸さない」
トウゴ「救助の人間からすると、いちばん聞きたくない約束です。困っていても手を貸さない、なんて。けど、羽生にとっては、一人で登るっていう挑戦の決まりなんです。線を引く人なんだと思いました。その線の引き方が、俺には眩しかった」[3]
読んだ。手を貸さねぇ約束か。……トウゴ、お前それ、黙って見てられたのか。
映画館の椅子の上で、ずっと拳を握ってました。俺なら、たぶん三歩目で約束を破ってます。だから、次のところで、羽生を本当に好きになったんです。
いいじゃん、それ! 好きになった瞬間ってやつか。言え言え。
Ending and reveals終盤の展開Tap to open
トウゴ「登っている途中で、嵐が来ます。深町の体は、もう言うことをきかなくなっている」
トウゴ「その深町のところへ、羽生が引き返してきて、助けるんです。手は貸さない、と自分で決めた男が、です。一人で登るという決まりより、目の前の一人を選んだ」
トウゴ「そのあと、深町は山を下ります。羽生は一人で、さらに上へ登っていく」
トウゴ「俺は、あの羽生が好きなんです。誰とも組まないと決めた人が、いちばん肝心なときには、人を見捨てなかった。一人で背負う強さと、人を助ける手は、同じ人の中にちゃんとあった。救助隊にいる人間として、あそこで息ができなくなりました」[3]
……泣けるじゃねぇか……!
ゲンは首の手ぬぐいで目もとをぬぐい、缶ビールには手を伸ばさずに、店の窓の外の山を見た。夕方の光が、さっき二人で歩いた尾根の線をなぞっていた。
で、羽生は。帰ってきたのか。
……最後のところ、区切ります。
Ending and reveals結末Tap to open
トウゴ「羽生は、戻ってきません」
トウゴ「深町は山の下の拠点で、何日も羽生を待ちます。それでも羽生は姿を見せない。やがて深町の手もとに、羽生がシェルパに託していたものが届く。あのマロリーのカメラと、羽生の手紙です」
トウゴ「俺の口ぐせは、帰るまでが救助だ。全員でな、なんです。羽生は、その反対の場所まで行ってしまった人です。だから、好きだと言うたびに、少し胸が痛い。でも、深町を下ろしたことで、羽生は深町の帰り道だけは、ちゃんと作ったんだと思うんです」[3]
待つ側の話だ、そこは。
待つ側、ですか。
俺は長いこと、待たせてた側だ。遠洋に出たら、何か月も帰らねぇ。港で待ってるほうは、手紙が来るまで、何も分からねぇ。深町も、そんな顔して待ってたんだろうよ。
……はい。そういう顔でした。
うちの港にもな、一人で船を出す年寄りがいる。夕方になると、俺は網を片づけながら、そいつの船が戻ってくるかだけは見てる。声はかけねぇ。かけたら、怒るからな。
……見てるだけ、なんですね。
見てるだけだ。止めたって止まらねぇ男は止まらねぇ。だったら、帰ってくる港の灯りくらいは、つけといてやる。
俺、救助の人間なのに、映画館で何度も考えたんです。あの人を止めるのが正しいのか、行かせるのが正しいのか。いまでも答えは出てません。でも、ゲンさんの灯りの話は、なんだか、腑に落ちました。
だから俺は、帰るほうを選んだ。羽生みてぇな男がいるのは分かる。山にも海にも、ああいうのはいる。けど俺は、帰って飯を食うほうだ。
俺もです。俺は仲間と登って、全員で下りてくるほうを選びます。羽生のやり方は、俺にはできない。できないから、あの人を観ていたいんだと思います。自分にない強さを、ずっと遠くから確かめていたいというか。
それと、深町のことも好きなんです。羽生を追いかけて、話を聞いて回って、最後は山にまでついて行く。追いかけるやつがいなかったら、羽生の登り方は、誰にも知られないままだった。
一人のやつの話を、陸まで持って帰るのは、いつも別のやつだ。船の上の話だって、そうやって港で語られてきた。
憧れるのと、真似するのは、別もんか。
はい。……すみません、俺、こんなにしゃべったの久しぶりです。いつもは、よかった、で終わるんですけど。
よかった、で終わるやつが、ここまでしゃべる。よっぽどの男ってことだ。俺も観る。嫁さんと二人で、部屋を暗くしてな。
部屋を暗くするなら、毛布を一枚出しておいてください。観てるうちに、なぜか寒くなるんです。それと、音は少し大きめに。山の風の音が、ちゃんと寒いので。
はっはっは! 山の映画で風邪ひいてたら世話ねぇな。
バスの時刻が近づいた。ゲンは空き缶を店の回収箱に入れ、トウゴは空になった烏龍茶の瓶を、ケースの返却棚に戻した。
次は海だぞ、トウゴ。今度は俺が、帰り道を案内する番だ。
はい。船酔いの薬、ちゃんと持っていきます。