十月の土曜、四時すぎ。午後のクラスが終わり、生徒たちが帰ったあとのスタジオに、イロハだけが残っていた。鏡の前で、さっき習った振りの最初の八カウントを、口の中で数えながらなぞっている。
ミサは窓を半分開け、床の端のタオルを畳みながら、それを横目で見ていた。
五つ目で重心が半拍遅れる。音は合ってるのに。
……はい。音は聞こえてるんです。足が、あとから来るだけで。
来るわよ、足は。今日はここまで。水、飲んで。
イロハは壁ぎわに座って水筒の蓋を開け、それから思い出したように顔を上げた。
先生、この夏、実家に帰ったときに、ロングバケーションを最後まで観ました。一日二話ずつ。
あら。最後まで?
はい。先生がいつも話してる、葉山南さん。……好きになりました。
そう。じゃあ今日は、南の話をしていいかしら。最終回まで、全部話すけど。
全部観たので、大丈夫です。私、ふだんは先を知りたくない人ですけど、今日は知ってる人どうしなので。
知ってる人どうしがいちばん危ないの。一回始めたら止まらないから。
南はね、仕事が減ってきたモデル。結婚式の日に、相手が来ないの。消えちゃったの。それで、その相手と部屋をシェアしてた、ぱっとしないピアニストの瀬名のところに、転がりこむことになる。[1]
放送のころ、私はまだ撮られる仕事が中心で、自分の教室なんて考えたこともなかった。月曜の夜は、何があっても家にいたわ。[1]
1996年4月15日〜6月24日、フジテレビ系「月9」枠で放送。全11話。脚本は全話を北川悦吏子が担当
南さんと、同じお仕事。
だから最初は、南に点が辛かった。同じ仕事の人を見ると、立ち方から直したくなるでしょ。
でも初回で負けたわ。瀬名と小さなけんかをして、南が部屋を出ていこうとする。その日が南の誕生日だって知った瀬名が、ピアノで誕生日の歌を弾くの。それで仲直り。[1]
知らない男の部屋で、けんかの最中に迎える誕生日。最悪よ。それを、一曲で持ち直せる人。私はそういう人に弱いの。
あの一曲、うまく弾こうとしてない弾き方でした。私の耳には、そう残ってます。
南って、さばさばして明るいのに、ときどき余計な一言を言っちゃう人。私も、人のことは言えないけど。[1]
先生は、余計な一言のあとに、ちゃんと褒めてくれます。
褒めても何も出ないわよ。
自己紹介のときは、演歌の大御所の名前を借りて名乗るのが決まり。岐阜の出身で、長良川下りのミスだったこともあるの。[1]
あの名乗り方、覚えてます。部屋の空気が一回、明るい黄色になる。
岐阜のお母さんは自慢の鮎の甘露煮を送ってくるし、電話では孫の話を持ち出してくる。それを、南は聞き流してるの。[1]
その流し方がいいの。言い返さない、謝らない。ちゃんと流す。親の電話の受け方として、私はあれを手本にしてるわ。
それ、お母さまに言ったら怒られますよ、先生。
言わないもの。
最初の回にはね、二人で三階の部屋からスーパーボールを投げ落とす場面もあるの。いなくなった婚約者が、街でよく回してたカプセルのおもちゃの一つ。[1]
下で何回も跳ねる音がしました。私、あそこは画面を見ないで、音だけ聞いていたい気がしました。黄緑の音。
私は投げる前の腕を見てたわ。肘から先が、ちゃんと遠くへ行ってた。捨てるときの腕じゃないのよ。
結婚式の日に相手が消える話を、最初に観たときの私は、ただ笑って観てたの。一回結婚して、ひとりに戻ってから観直したら、笑うところが変わってた。
どこで笑うようになったんですか。
転がりこんだ先で、あっというまに南のペースで暮らしが回りだすところ。瀬名のほうが振り回されてる。ひとりに戻った人は、あのくらい図々しくていいのよ。
……それ、いい色。
題名にも裏話があるの。ほかの人の案だった『星に願いを』に決まりかけた時期があって、『年上の女』っていう案もあったんですって。ロングバケーションって付けたのは、脚本の北川悦吏子さん本人。[1]
『年上の女』だったら、先生、観てました?
観てたわよ、意地でも。でも、休みの題でよかった。南は、何かの続きの人じゃなくて、休みの途中の人だから。
瀬名がある一曲を弾く場面は何度か出てくるんだけど、そのうち一つは瀬名の役の人が本人の手で弾いてるの。その場面に向けて、ピアノを習ったそうよ。[1]
どの場面か、手を見たら分かるかもしれません。指が鍵盤に乗るまでの間が、ほかの場面と違ってた。
今度、一緒に確かめましょ。
瀬名の部屋があるビルはロケに使われて、放送中から見物の人がたくさん来たんですって。撮影が終わったら壊されちゃって、跡には別の建物が建ってる。近くの川にかかる橋も、よく画面に出てくるの。[1]
行ったこと、ありますか。
一回だけ。ビルはもうなくて、橋だけがあった。橋の上で、ちょっとだけ南の歩き方をまねしてみたわ。誰も見てなかったけど。
ここからは中身。畳んで話すわね。
Up to midway第2話から第4話のあたりTap to open
ミサ「瀬名あてに届いたはがきで、婚約がはっきり取り消しになったと南は知るの。どこかで戻ってくるかもしれないって思ってたから、落ちこむ。そこで瀬名が持ち出すのが、人生がうまくいかないときは、神さまからもらった休みだと思おう、って考え方」
ミサ「次の回で、瀬名は後輩の涼子にコンクールに出ないかと勧められても、いまは自分の腕を試すときじゃないって断る。南は事務所を首になる。二人とも、それぞれ焦らずに過ごすことにする」
ミサ「私が胸をつかまれたのは、その次の回。瀬名が涼子にちゃんと告白することになって、南は自分から涼子の役を買って出て、前の日の練習に付き合うの。告白の当日、そっとのぞいた南は、なんだかさみしくなる」
ミサ「レッスンでもよくあるの。本番に出ない子が、相手役の位置に立って一緒に踊る。そういう子のほうが、本番の子より先に振りを覚えちゃう。体が、先に相手を覚えちゃうの」[1]
開けました。私、あの回を観たあと、一日休んでから次を観ました。
私もそうするわ。それから、南が仕事を外されたあと、どうするか。私はそこが、南のいちばん好きなところ。私の仕事にも近いから。これも畳む。
Up to midway第6話・第7話のあたりTap to open
ミサ「面接に落ち続けた南は、カメラマンの杉崎から、アシスタントをやらないかって誘われる。経験はないし、自信もない。瀬名に意見を聞いたら、とにかくやってみたらって言われて、働きはじめるの」
ミサ「次の回で、現像所へ持っていくよう杉崎に頼まれたフィルムを、南はなくしてしまう。一日じゅう街を探しても見つからない。もう辞めるしかないって覚悟して事務所へ向かったら、誰かが拾って届けてくれてた。ほっとするの。そのあと二人で、次の日の入稿に間に合わせるために夜通し作業して、なんとか間に合わせる」
ミサ「撮られる側だった人が、撮る側のいちばん下に入る。フィルムを運ぶ係からよ。私も振付を始めたころ、撮影の現場でカメラの後ろに回ったことがある。前に立ってるときは見えなかったものが、後ろからは全部見えた。照明の人が何度も脚立に上がり直してたこと。私の一歩目のために、床に小さな印が貼ってあったこと」
ミサ「夜通しで間に合わせたあとの南を見て、私は、カメラの前にいたころの南より綺麗だと思った。私には、そう見えたの」[1]
開けました。先生、床の印の話、初めて聞きました。
初めて言ったもの。あの印、剥がすときにちょっとだけ泣いたの。誰にも言ってないけど。
いま、言いました。
……聞かなかったことにして。次は、私がこのドラマでいちばん好きな回。畳むから、開けたらあなたの読みも聞かせて。
Up to midway第9話Tap to open
ミサ「コンクールを前に、新しい先生にきつく言われた瀬名は、自分の才能はここまでだと思って、ピアノを弾かなくなる。音楽教室のアルバイトも辞めてしまう。南が説得しても、奇跡でも起きない限り、もうこれ以上うまくは弾けないって」
ミサ「南は納得しない。電子ピアノを買ってくるの。瀬名が前に弾いてくれた思い出の曲。それを一週間、必死に練習する。そして瀬名のために弾く。たどたどしいけど、心をこめて」
ミサ「瀬名は、その演奏に奇跡を感じて、心を動かされる。南にもう一度説得されて、ピアノへの気持ちを取り戻すの」
ミサ「私は、ここを一週間の準備の話として観てる。弾けない人が、一週間で人の前に出る。私の教室の発表会の前の週と同じ。振りが入らなくて泣いてた子が、最後の一週間で化ける。うまくなるんじゃないの。人に見せる覚悟ができるの」
イロハ「私は、少し違う読みです。つっかえたところが好きでした。上手に弾けてたら、瀬名さんには届かなかったと思います。音が一回止まって、また鳴るまでの間に、南さんがいたから」
ミサ「止まったところに人がいる、ね」
イロハ「私、まっすぐ引けなかった線を、消さないでノートに残してるんです。あの演奏は、それと同じでした」
ミサ「あなたらしいわ。……でも、一週間は一週間よ。そこは譲らない」[1]
あの回だけは昔から、会う人会う人に、絶対観るべき!って言ってきたの。
ふふ。いま、私にも言いました。
あなたはもう観てるから、数に入らないの。最後の二回も畳むわ。開ける前に、一回深呼吸して。
Ending and reveals第10話と最終話Tap to open
ミサ「予選を通った瀬名は、いちばんになったらボストンに行くと南に伝える。南は南で、杉崎から結婚を申しこまれたと話す。お互いに、聞かされたほうが傷つくの」
ミサ「そのあと、南が前に残していった花火を、瀬名がアパートの屋上で一人でやってる。そこへ南が来る。あなたとキスしに来た、って。私、ここで声が出たわ」
ミサ「最終回。ほんとうに好きなのは瀬名だと気づいた南は、杉崎に謝って、結婚はできないと伝える。それなのに二人はまた口げんかになって、南は、ボストンでもどこでも好きに行けばいい、って突き放しちゃう。写真の仕事で生きていくことを考えはじめる」
ミサ「瀬名は、休みはもうおしまいだからって、本選のチケットを南に渡す。本選の日、客席の南の頬を涙がつたう。瀬名がいちばんになって、ボストン行きが決まる。人に囲まれた瀬名に、南は離れたところから小さく応援の言葉をつぶやいて、そっと会場を出ていくの」
ミサ「南の姿がないと気づいた瀬名は、弾いたときの衣装のまま街を走って、南に追いつく。ボストンに一緒に来てくれ、って。南は、はいって返事をする代わりに、瀬名にキスをする」
ミサ「最後の南はね、自分から出ていこうとした人なのよ。相手の門出に、自分の荷物を載せないように。呼び止められたから綺麗なんじゃないの。黙って背筋を伸ばして、出ていこうとしたから綺麗なの」[1]
……少しだけ、息を止めて読みました。
でしょう。もう一つだけ、結末の裏話があるの。これも畳んでおく。
Ending and reveals結末の裏話Tap to open
ミサ「最初は、愛し合う二人を別れさせる筋書きが用意されてたんですって。でも、観ている人からの要望に応えて、二人が結ばれる終わり方に変えたそうよ」
ミサ「私は、それを知ってもがっかりしなかった。別れる筋のままだったら、南は会場を出ていったまま終わってたのかもしれない。それも綺麗。でも、月曜の夜にテレビの前にいた人たちが、もう一回だけ南を呼び止めたの」
イロハ「呼び止めた人の中に、先生もいたんですね」
ミサ「いたわよ。声は出してないけど、体はたぶん前のめりだった」[1]
窓の外が、少しずつ夕方の色になっていた。ミサはタオルを肩に掛けて立ち上がり、スタジオのスピーカーの前に行った。
先生、南さんのどこがいちばん好きか、一言で言うと。
自分が落ちてる最中でも、人の背中は押せるところ。
一言より、ちょっと長かったです。
細かいのね。ほら、立って。最初の八カウント、もう一回だけ合わせる。
ミサが再生ボタンを押した。流れてきたのは、あのドラマのオープニングの曲、「LA・LA・LA LOVE SONG」だった。イロハは小さく笑って、鏡の前に立った。
ファイブ、シックス、セブン、エイト。