この記事は、6本の中でいちばん書くのに時間がかかった。好きな理由を並べようとするたびに、手が止まる。ミステリーの話は、何を話しても、まだ読んでいない人の時間を少しずつ使ってしまう気がするからだ。6選の3本目は『十角館の殺人』。触れるのは、大学のミステリ研究会の学生たちが、島に建つ十角形の館を訪れる、という出発点だけにします。
冬の夜の布団の中で
出会ったのは小学校の高学年。親戚の家の本棚に並んでいた文庫本を、題名の響きだけで借りて帰った。十角形の館、という言葉が、図形好きの子どもにはたまらなかった。
冬休みの夜、布団にもぐって、懐中電灯で読んだ。いまより漢字も知らなかったし、わからない言葉は前後から勝手に想像して進んだ。それでも、島に渡った学生たちの会話を追っているうちに、外の寒さを忘れていた。読み終えたのが何時だったかは覚えていない。覚えているのは、懐中電灯の電池が切れかけて、光がだんだん黄色くなっていったことだ。
好きな理由その一:閉じた舞台の空気
島と館という舞台は、世界の大きさをぎゅっと小さくする。海に囲まれた場所で、行ける範囲も限られている。その閉じた感じが、子どもの僕にはとても心地よかった。解讀
小学校の低学年から、読んだ物語の地図を描く癖があった。場所と出来事を線でつなぐ遊びだ。この本を読んだあとも、僕はノートに自分なりの島を描いた。正確さはどうでもよくて、海の色を青く塗りつぶすのが楽しかった。
その二:ミステリが好きな人たちの会話
島を訪れるのは、ミステリ研究会の学生たちだ。だから彼らは、ミステリについて語る。小学生の僕には、年上の人たちが部室で好きなものの話をしているのを、扉の外からこっそり聞いているような気分だった。自分の好きなものを、こんなふうに本気で語っていい場所があるんだ、と思った。解讀
その三:文章のひんやりした温度
文章が、どこか涼しい。登場人物の感情を大きな言葉で盛り上げるより、島の天気や海の気配を淡々と置いていく。その抑えた温度が、布団の中の暖かさと妙に合っていた。冬になると、いまでもあの涼しさを思い出す。喜好
話したくて話せなかった
冬休みが明けて、同じクラスの友だちにこの本の話をしようとした。そして、最初のひと言で詰まった。何を言っても、その友だちが読むときの何かを先に使ってしまう気がしたのだ。結局その日は「面白かった」としか言えず、友だちは「ふうん」と言って、話は給食のほうへ流れていった。
あのとき初めて、好きな本を人に勧めることの難しさを知った。内容を話せば話すほど、相手の初めての時間を削ってしまう。かといって黙っていたら、そもそも手に取ってもらえない。
それから僕は、本を勧めるときに、中身ではなく「自分がどう読んだか」を話すようになった。冬の夜に布団の中で読んだこと。懐中電灯が黄色くなったこと。それなら、相手の時間を何も削らない。これは十角館に限らず、どんなジャンルの本でも、いまも続けている僕のやり方だ。
だからこの本が好きだというのは、物語そのものだけの話ではない。これから読む誰かの初めての時間を、守る側に立てること。それも含めて、僕はこの本が好きなんだと思う。解讀
働き始めてから、自分の一冊を買い直した。人に貸すときは、表紙の裏に小さな付箋を一枚だけ貼る。書くのは「好きな時間に読んでください」の一言だけ。付箋の色にも意味をつけていたはずなのだけど、水色が何の合図だったのか、もう思い出せない。返ってきた本の付箋が、別の色に替わっていたことが一度だけあって、それがいちばん嬉しい感想だった。
題名に「殺人」って入ってると、それだけでちょっと身構えちゃう。私、怖いのは苦手なんだけど、大丈夫かな。
正直に言うと、人が亡くなる事件の話ではある。だから、しんどい日には勧めない。ただ、僕が読んだときに残ったのは、怖がらせる場面より、考えたくなる時間のほうだった。読み進めるかどうかは、最初の数章で決めて大丈夫。喜好
数章で決めていいなら、気が楽かも。明るい時間に読むのはあり?
ありだと思う。僕は布団の中だったけど、それは僕の読み方。ナギの読みやすい時間でいい。
これから読む人へ
ミステリーを読み慣れていなくても、犯人を当てようと身構えなくていい。島に渡った学生たちの後ろを、少し離れてついていくくらいの気持ちで十分です。できれば、時間に余裕のある日に、静かな場所で。読み終えたら、誰かに勧めるときは、どうか中身ではなく、あなたがどんな夜に読んだかを話してあげてください。喜好
ほかの好きな作品とのつながり
「知らないまま渡す」という考え方は、大人になってから『Outer Wilds』でもう一度出会い直すことになる。人に勧める難しさを最初に教えてくれたのがこの本で、知らないまま渡すことは贈り物にもなると教えてくれたのが、あのゲームだった。
好きな本を勧めるときは、中身ではなく、自分がどんな夜に読んだかを話す。