昼のバッティングセンターの帰り。ハルとカオルの前に、今日はもう一人いた。カオルの知り合いの知り合いで、隣のレーンで黙々とバットを振っていた高校生のハヤテだ。ハルが言った。「小学校の高学年の男子に一作だけ渡すなら、何にする?」。三人とも、その年ごろに人生を変えた一作を持っていた。
ハルの一作は大人の宇宙飛行士
僕は『宇宙兄弟』。高学年のとき、将来の夢の作文に「宇宙に関わる何か」って書いた。中身は空欄のまま。でも、夢に向かう道は一本じゃないって、あの漫画で初めて思ったんだ。喜好
小山宙哉の漫画『宇宙兄弟』の連載は、講談社の『モーニング』で2007年12月から2026年6月まで続いた。テレビアニメは全99話で、2012年4月から2014年3月にかけて、読売テレビと日本テレビ系列で放送されている。主人公は二人いて、その一人の南波六太は初登場のとき31歳だった。事實[1]
ちょい待ち。31歳のおっちゃんの話やろ? 高学年の男子に、それ刺さる? あの年の子は、自分と同い年くらいの主人公のほうが燃えるんちゃうかな。
だから効くんだよ。子どもの夢の話じゃなくて、一回あきらめかけた大人が、もう一回宇宙を目指す話。10歳で読むと「夢って、大人になってからでも間に合うんだ」って分かる。それって、すごく安心するんだ。解讀
……あの、僕も少し分かります。カートをやっていると、周りは大人ばかりなので。年上の人が本気で悔しがっているのを見ると、こっちも本気でいいんだって思えました。解讀
カオルは747話で勝負する
うちは『MAJOR』や。小学生のとき、男子に混じってエースで4番やってん。負けた日は家の前の壁にボール投げ続けてな。あの漫画があったから、壁に投げる意味があった。喜好
満田拓也の漫画『MAJOR』は、小学館の『週刊少年サンデー』に1994年から2010年まで連載され、話数は全747話にのぼる。描かれるのは主人公・茂野吾郎の半生で、友情や努力のほかに「家族」「逆境」もテーマになっている。テレビアニメは2004年に始まり、本放送は2010年、第6シリーズを最後に終わった。事實[2]
747話! 高学年の子に、それは長すぎない? 途中で止まったら、もったいない気がする。
長いのがええねん。主人公が子どものころから始まるから、読んでる子も一緒に年を取っていける。小学生の吾郎を読んでる時期と、自分が中学生になる時期が重なったりするんよ。途中で止まっても、また戻ってこれる長さやと思う。解讀
それに、入るチームがだいたい弱いところから始まるんですよね。強いチームで勝つより、何かを抱えたチームで踏ん張るほうが、高学年には響く気がします。有依據的推測
そこやねん! ハヤテくん、分かってるやん。
ハヤテは手作りのカートから
僕は『capeta』です。小学生で初めてハンドルを握ったころ、カート屋のおじさんにタイヤの磨き方から教わりました。この漫画は、お父さんが拾ってきた材料でカートを作るところから始まるんです。喜好
曽田正人の漫画『capeta』は2003年から2013年まで『月刊少年マガジン』で連載され、講談社漫画賞(第29回)の少年部門を受けた。主人公は、カートのとりこになった少年・平勝平太。捨てられていた材料から父が手作りしたレーシングカートを、彼が受け取るところから物語は動き出す。アニメも全52話が、テレビ東京などで2005年から2006年に放送された。事實[3]
速く走る話なんですけど、僕がいちばん好きなのは、車を作ったり直したりする人たちが出てくるところです。乗る人の後ろに、手を動かしている人がいる。……あ、すみません。しゃべりすぎました。喜好
いや、もっと聞きたい。それ、読んだ子がカートやりたくなったらどうするの?
カート場に連れていってあげてください。ちゃんとしたコースで、大人と一緒に。公園の坂道で真似するのは違います。それは、サーキットでやることです。喜好
ほんま、そこだけ急に声が太なるな。
映画とバレーも一本ずつ
まだ漫画が長いと感じる子には、映画の『カーズ』もいいと思います。家にひとりの日、何度も観ました。喜好
長編アニメーション映画『カーズ』の公開は2006年で、製作はピクサー・アニメーション・スタジオ。主人公のライトニング・マックィーンは天才レーサーで、新人として初めてのチャンピオンを狙っている。事實[4]
僕は『ハイキュー!!』も足したい。中学のころ部活で控えが多かったけど、声出しだけは負けなかった。自分の得意を仲間のために使いたくなる話だ。喜好
古舘春一が高校バレーボールを描いた漫画『ハイキュー!!』は、連載誌は『週刊少年ジャンプ』で、2012年から2020年まで続いた。主人公は小柄な少年・日向翔陽。地元の高校のエースをテレビ中継で見て心を奪われたのがきっかけで、バレーボールを始める。事實[5]
勝ちの話か負けの話か
結局どれも、最後は「また頑張れた」っていう話だよね。だから高学年に……
待って、ハル。いまの、まとめるの早いで。うちが『MAJOR』で覚えてるのは、頑張れた日より、壁にボール投げても何も変わらへんかった日のほうや。高学年って、初めて本気で負ける年やろ。負けた日にページを開ける作品かどうかのほうが、大事やと思う。解讀
……そうだね。僕、また前向きな結論を急いでた。負けた日の夜に、読んでも責められない一作。そっちで選び直す。
渡し方で決まる
作品も大事だけど、渡し方で決まると思う。僕は人に何か薦める前に、まず「今日、どれくらい残ってる?」って聞くようにしてる。部活でへとへとの日に、長い漫画の一巻目を渡されても入ってこないから。喜好
わかるわ。うちは兄貴の録画で野球アニメ観てたけど、自分から「観たい」って言うまで誰も何も言わんかった。押しつけられたら、たぶん観てへん。喜好
僕は、家にひとりの日に観ることが多かったです。両親の帰りが遅くて。だから、誰かに「これ観た?」って聞かれると、それだけでうれしかったです。感想を言う相手がいるのが。喜好
……観たあとに話せる人がいる、ってことか。高学年の男子って、自分からは感想を言わない子も多いもんね。有依據的推測
せやから、大人も同じ作品を一緒に追いかけたらええねん。親が先に一巻読んで、机の上に置いとくだけでもええ。喜好
隣の家の人が、昔のレースアニメのDVDを貸してくれたことがあって。返すときに少し話すだけで、ちゃんと見てもらえてる気がしました。喜好
ハヤテくん、さっきから手がハンドル握る形になってるで。
……あ、すみません。時間が空くと、つい頭の中でコースを走ってしまって。
それ、いいね。高学年の子にも、そういう「気づいたら考えてる」ものが一個できたら、それで十分な気がする。解讀
最後に一人一作
それでも僕は『宇宙兄弟』。夢の作文が空欄のままでも大丈夫だって、31歳の主人公が教えてくれる。喜好
うちは『MAJOR』。長いぶん、負けた日も一緒に年取ってくれる。喜好
僕は『capeta』です。速さの話だと思って読み始めて、気づいたら作る人と支える人の話になっている。その順番がいいと思います。喜好
ハルとカオルは帰り道でも「主人公は大人か子どもか」でまだ言い合っていた。ハヤテは少し後ろを歩きながら、目を閉じてハンドルを握る手つきをしていた。
高学年の男子に渡すなら、勝つ話より「負けた日の夜に開ける話」を。