ゲンだ。今日は『オトナ帝国』の二周目をやる。6選では、父ちゃんの場面で泣いた話をした。今日は、泣く前と泣いたあとの話だ。手がかりは鼻と耳。聞き手は竜山さん。昭和をまるごと生きてきた人だ。ここから先は最後まで観た人向け。大事なところは、開かないと読めない場所にしまってある。
一周目は船の食堂だった
劇場版『クレヨンしんちゃん』としては9作目で、封切りは2001年4月21日。89分の映画で、原恵一さんが監督と脚本を一人でやっている。事實[1]
一周目は遠洋の船の食堂で観て、父ちゃんの場面でぼろぼろ泣いた。泣いた場面が強すぎて、そこまでの道のりをほとんど覚えてなかった。陸に戻って何度も観るうちに、泣く場所の手前に仕掛けがたくさん埋まってるのが分かってきた。網を上げる前に、魚より先に潮の流れを見るのと同じだ。喜好
俺は映画館ではのうて、テレビで流れたのを観た。しんちゃんの映画で、まさか自分の若いころの景色が出てくるとは思わんかったのう。喜好
竜山さんは、懐かしがる側の大人だもんな。
そうじゃ。じゃから、ちと怖かった。ははは。喜好
子供部屋に預けられた側
話が始まってしばらく、大人たちは20世紀博に入れあげている。子どもたちは20世紀博の子供部屋にほぼ毎日あずけられて、ぶうぶう言っている。親たちの世代は20世紀を、子どもたちの世代は21世紀を背負わされて描かれているんだ。事實[1]
一周目の俺は、大人の側に座ってた。懐かしいもんに浸る気持ちが分かりすぎたからな。二周目は子供部屋の側に座ってくれ。……耳が痛ぇぞ。俺は何か月も海に出て、子どもを家に置きっぱなしだった。父ちゃんは仕事だって言われて待ってる子どもの顔が、あの子供部屋の場面に重なる。喜好
中段為止中盤の展開(大人がいなくなる朝)點擊展開
夜のうちに20世紀博から、明日の朝に迎えに来る、とだけ告げる短い知らせが届く。次の朝、にぎやかな音楽を鳴らしてオート三輪がずらりとやって来て、大人たちはみんな乗っていってしまう。残されたのは子どもたちだけだ。電気も止まった街で、子どもたちはどうしていいか分からずに慌てふためく。
子供部屋の場面を先に気にしておくと、この朝はいきなり起きた事件じゃなく、毎日少しずつ起きてたことの続きに見えてくる。解讀[1]
懐かしさは甘い。じゃが、そこに浸りきるのは怖いのう。解讀
テレビ版にあった小さな種
元になった回が、テレビシリーズにある。「母ちゃんと父ちゃんの過去だゾ 1」、放送は1999年9月10日。懐かしいアトラクションができたので、みんなで行ってみる、という筋だったそうだ。映画の中には、高度成長期、つまり昭和30〜40年代を思い出させる品物や仕掛けがあちこちに使われている。原さんは終わり方を決めずに、頭の万博の場面から描き始めた。あまりに念入りに描くもんだから、若いスタッフに引かれたらしい。事實[1]
万博の年、俺は三十じゃった。道場を開いたばかりで、行く金も暇もない。テレビで人の行列を眺めとっただけじゃ。それでも、あの映画の万博を観たら、行ってもおらん場所が懐かしかった。喜好
行ってねぇのに懐かしい、か。それ、20世紀博にやられてる大人と同じじゃねぇか。解讀
ははは、そうじゃ。懐かしさは、本物でのうてもかまわん。そこが甘くて、怖い。二周目は、昔の小道具がどれだけ丁寧に描いてあるかを見てみい。丁寧なほど、引き込まれる大人の気持ちが分かる。解讀
港に入る前の匂い
俺は海の男だから、匂いには弱い。港に入る前に、油と魚と潮の混ざった匂いがすると、ああ帰ってきたって体が先に分かる。懐かしさってのは、頭より鼻のほうが早い。二周目は、この映画で何が匂いとして出てくるかを数えながら観てくれ。喜好
中段為止中盤の展開(大人たちが変わった理由)點擊展開
大人たちを子どもに戻していたのは、「イエスタディ・ワンスモア」が作った「20世紀の匂い」だった。そして、ひろしを正気に戻すのも匂いだ。しんのすけに自分の靴を嗅がされて、ひろしの頭に、これまで歩いてきた人生がよみがえる。積み重ねてきた人生の、足の匂いだ。
昔へ引っぱる匂いと、いまへ連れ戻す匂い。同じ鼻で勝負がつく。一周目の俺は、靴を嗅ぐところで笑って、そのあとで泣いた。二周目は、笑う前に胸が詰まる。俺の長靴も、相当な匂いだからな。解讀[1]
道場の板の間にも、そういう匂いが染みとる。懐かしい匂いは甘いが、汗の匂いは今日の匂いじゃ。解讀
ケンという男
ケンは「イエスタディ・ワンスモア」を率いる男で、乗っているのはトヨタ2000GT。「俺の魂」と呼ぶほど、その車を大切にしている。事實[1]
古い車を「俺の魂」と呼ぶ男じゃ。古いものを、ほんとうに大事にしとる。だから憎みきれんのう。解讀
竜山さん、策の話になると声が低くなるな。
ほう、ばれたか。ケンは悪じゃ。じゃが、卑怯ではない。そこを見分けるのが二周目の楽しみじゃ。解讀
中段為止中盤の展開(ケンの家で語られること)點擊展開
ケンは野原一家を、チャコと二人で住む家へ連れていく。ここで計画の仕上げが語られる。東京タワーのてっぺんのスイッチを入れて、「20世紀の匂い」を、二度と引き返せない濃さまで上げるつもりなんだ。
二周目は、この家の場面のケンの話し方を聞いてくれ。脅すより、説明している。だから野原一家は、どこへ走ればいいかが分かる。解讀[1]
挿入歌には「ケンとメリー〜愛と風のように〜」や「今日までそして明日から」が使われている。事實[1]
曲名を並べただけで、この映画が昨日と明日を秤にかけてるのが分かる気がするんだよな。解讀
終盤の音
二周目は、終盤を目じゃなく耳で追ってみてくれ。一周目に顔ばっかり見てた場面ほど、音が違って聞こえる。喜好
結局·真相結末(東京タワーの場面)點擊展開
クライマックスで、しんのすけが階段を死にものぐるいで駆け上がる。あれはテレビ朝日のプロデューサーが出した案が元で、敵と戦わせず、しんちゃんに階段を上らせたらどうか、という話だったそうだ。原さんは、あの場面がああなったのは音楽によるところもとても大きい、と言っている。
しんのすけはたった一人で、東京タワーのいちばん上へ向かう。転んでは起き、鼻血を出し、ぼろぼろの体でケンとチャコのところにたどり着いたところで、ばたりと倒れる。ちょうどそのとき、懐かしい匂いの濃さが底まで落ちて、計画はつぶれる。野原家のがんばりを見ていた街の人たちが、やっぱり今の21世紀で生きていきたい、と思い直したらしい。ケンは「未来を返す」と言って負けを認め、大人たちを自由にする。
一周目の俺は、しんのすけの顔ばっかり見て泣いてた。二周目、目をつぶって音だけで追った回がある。俺の耳に残ったのは、殴り合いの音じゃなく、足音と息と音楽だった。戦わずに上るってのは、こういうことなんだな。解讀[1]
強い者ほど静かじゃ。解讀
……ああ。……ああ、そうだな。
ここで、俺たちは二人して黙った。一周目と同じ場所で泣いたのに、泣いてる理由が少し違った。喜好
エンディングは一番だけ
流れるエンディング曲は、こばやしさちこさんの「元気でいてね」。映画で使われるのは1番だけで、「お母さん」との思い出が歌われている部分だ。事實[1]
結局·真相結末(エピローグ)點擊展開
エピローグのケンは、チャコを乗せた2000GTでどこかへ走り去る。野原家も、かすかべ防衛隊も、日本中の人たちも、みんな自分の家に帰っていく。
エンディングの歌は、一番だけが流れる。二番が流れないから、続きは観てる側が家に持って帰ることになる。俺にはそう聞こえる。解讀[1]
懐かしさは一番だけでええ。二番からは、自分で生きるもんじゃ。解讀
観終わると、子どもたちの顔を見に行きたくなる。……いまは同じ家にいるんだけどな。喜好
二周目は、大人たちが20世紀博で懐かしさに浸っている裏で、子供部屋に預けられた子どもたちの顔を見てほしい。泣く場面は、そこから始まっている。