岡山駅前の路面電車の乗り場で、カノンはツインテールを両手でつかんだまま、電車の顔をのぞきこんでいた。ゆうべ東京から夜行バスで着いて、まだ少し眠い。それでも目はきらきらしていた。
先生! 電車が道路を走っています!
路面電車ってそういうものよ。ほら、背中。眠くても、乗り場では背筋。
ミサは前の日から岡山にいた。振付の仕事が一本あって、それが終わった夜に、カノンへ短いメッセージを送った。「明日あいてるなら、来なさい。偵察するなら、この町よ」。カノンは金欠の財布を三回のぞいてから、夜行バスを予約した。
『推し武道』、岡山市を拠点にしてる地下アイドルのグループと、そのファンのお話なんです。私、アニメで全部観てきました![1]
私はドラマのほうを観たわ。四年前の秋だったかしら。アニメは、まだちょっとね。でも人間がやってると、つい最後まで観ちゃうのよ。
ドラマは2022年秋放送
えっ、先生も観てくださったんですか。私が好きだって言ったから……?
勘違いしないで。ドラマは全部観るの。それだけ。
ミサはそう言って、乗り場に入ってきた電車へ先に乗った。カノンは少しだけ口元をゆるめて、あとに続いた。
この町の路面電車は二路線あって、そのうちの東山本線は、岡山駅前から東山・おかでんミュージアム駅までを結んでいる。
二人は、表町の商店街に近い停留場の一つ、城下で降りた。
ドラマでは、この路面電車も、これから歩く表町の商店街も、撮影に使われたの。[1]
岡山表町商店街は、岡山市でいちばん大きな商店街で、アーケードの下を南北に一・四キロほど続いているのだという。もとは、戦国時代の終わりから整えられた岡山の城下町の、商人の町だった。
アーケードに入ると、日曜の昼らしく人が多かった。カノンは右を見て左を見て、何度か立ち止まりかけ、そのたびにミサに袖を引かれた。
立ち止まるなら、端。店の前と、人の流れの真ん中には止まらない。ここは、この町の人の毎日の通り道よ。撮るのも、通る人が切れてから。
はいっ。……ライブハウスの前で並ぶときと、同じですね。近所の方の迷惑にならないように、って。
そう。好きな場所を守るのは、好きな人の歩き方なの。
歩きながら、話は作品の主人公のえりのことになった。
えりぴよさんはフリーターさんで、パン工場でバイトしてるんです。舞菜ちゃんにチラシをもらって野外ライブを観に行って、それがきっかけで、お給料をほとんど全部、舞菜ちゃんの応援につぎ込むようになるんです。[1]
ああ、赤いジャージの子ね。どこへでも高校のジャージで行くの。応援のお金を作るために、私服を全部売っちゃったんですって。服を売るのは反対だけど、あの覚悟は嫌いじゃないわ。[1]
私、えりぴよさんの気持ち、ちょっと分かります。偵察でライブに通ってると、いつも金欠なので……。
知ってる。だから今日の夜行バス代は、出世払いで貸しといてあげる。
カノンが「出世払い……!」と目を輝かせた、そのときだった。
あの……すみません。カノンさん、ですよね。
振り返ると、大学生くらいの女の人が、紙袋を胸に抱えて立っていた。カノンは目を丸くした。その場で、背中から首までが、すっとまっすぐになった。
夏に、東京で一回だけライブを観ました。こっちに住んでるから、なかなか行けなくて。でも、告知はずっと追いかけてて……ツインテールで、すぐ分かりました。
よ、よくぞ遠路……じゃなくて、遠いのは私のほうで……ええと、苦しゅうな……ちがう、ありがとうございます!
言葉はめちゃくちゃだった。でも、そのあとの一礼だけは、見事だった。かかとをそろえ、背筋をそのまま前へ倒し、きっちり三つ数えて戻る。女の人は、つられて自分も深く頭を下げた。
ミサはそっと二人の背中に手を添えて、アーケードの柱の陰の、店の入口にかからない場所へ寄せた。
ここなら通る人の邪魔にならないわ。写真、撮ってあげましょうか。
女の人は、写真はいいんです、と首を振った。話したいことを、話したかっただけなので、と。そして、早口で一つだけ言った。
夏のライブのMCで、ファンが少ないって笑って言ってたじゃないですか。少ないうちの一人です、って、それだけ言いたくて。……じゃあ、失礼します!
女の人は、紙袋を抱えたまま、人の流れの中へ早足で消えていった。カノンは同じ場所に立ったまま、しばらく動かなかった。
……先生。私、いま、すごく偉そうでしたよね。よくぞ遠路、とか言いました。
言ったわね。
あれ、塩対応だと思われてたら、どうしよう……。
ミサは答えるかわりに、近くの柱にもたれて腕を組んだ。
舞菜って子、いたでしょう。グループでいちばんファンが少なくて、内気で人見知り。えりには塩対応ばかりしてるように見えるのに、ほんとは嫌ってなんかいなくて、むしろ仲良くなりたいと思ってる。[1]
ドラマで観ながら、私、ずっと思ってたの。言葉なんて、緊張したらどうせ崩れるのよ。崩れたあとに、体が何をするか。それが伝わるの。
あなたの礼は、今日も百点だった。言葉が五十点でも、あの人はちゃんと受け取って、自分も頭を下げて帰っていったわ。見てたでしょう。
カノンは、口を開きかけて、閉じた。それから、ゆっくりうなずいた。本番の舞台では一度も泣いたことがない。ここは舞台ではなかったので、目のふちが少しだけ赤くなった。
……私、子どものころ、まわりの大人がみんな頭を下げるばっかりで、目を合わせてくれなかったんです。だから、頭を下げられるのは、ちょっと苦手でした。
でも、さっきのは違いました。あの人が頭を下げたの、私が下げたから、だったので。……同じ高さでした。
そうよ。礼って、本来そういうものなの。
二人はアーケードを南へ歩いた。カノンは何度も、さっきの柱のほうを振り返った。
先生。お願いがあります。ありがとうの言い方、練習させてください。次に誰かに会えたとき、偉そうじゃなく言えるように。
高い声で可愛く、って言うんでしょう。
……はい。可愛い声に、憧れてるので。
却下。あなたの声は低い。それを高くしようとするから、喉が固まって、変な言葉が出てくるの。低いまま言いなさい。お腹から、ゆっくり、相手の目を見て。礼は、言い終わってから。
アーケードの切れ目の、人の少ない角で、カノンは一度だけ練習した。低い声のまま、ゆっくり。ミサは何も直さなかった。直すところがなかったからではなく、直さないほうがいいと思ったからだった。
帰りの路面電車を待つあいだ、ミサが、さっき通りすがりに買っておいた紙袋をカノンに渡した。中には、丸いパンが二つ入っていた。
電車で、あなたが言ってたでしょう。えりはパン作りの才能だけは飛び抜けてて、舞菜の好きな食べ物もパンだって。……推す側と推される側が、同じものを好きって、いいわよね。[1]
先生……私の話、ちゃんと聞いててくださったんですね。
うるさいわね。帰りの新幹線で食べなさい。電車の中じゃ食べないのよ。
路面電車が、道路のまんなかをゆっくり近づいてきた。カノンはパンの袋を胸に抱えて、低い声のまま、ミサに向かって言った。ありがとうございます。それから、きっちり三つ数えて、礼をした。
ミサは、レッスンのときと同じ顔で、小さくうなずいた。そして、カノンが顔を上げるより先に、いちばん近くで、少しだけ笑った。