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日常

低い声のままでありがとう

劇透範圍 無劇透 『推しが武道館いってくれたら死ぬ』は、岡山の地下アイドルグループのいちばんファンの少ないメンバー舞菜と、収入のほぼ全てを舞菜に注ぐファンのえりが、互いに想い合いながらすれ違うという始まりの設定と、登場人物の紹介まで。物語の展開と結末には触れません

『推しが武道館いってくれたら死ぬ』の町、岡山市へ。アニメで観たカノンと、ドラマで観たミサ。路面電車で着いたアーケードで、駆け出しアイドルのカノンに、思いがけない人が声をかける。

適合這樣的人
誰かを推すほうにも、推されるほうにも、少しだけ足を入れている人へ。緊張すると、ふだんの自分と違う言葉が出てしまう人にも。
發言的人
Kanon × Misa
聖地巡禮 岡山県岡山市北区(岡山駅前から路面電車に乗り、岡山表町商店街のアーケードを歩く) 十一月の日曜、昼前から夕方まで

岡山駅前の路面電車の乗り場で、カノンはツインテールを両手でつかんだまま、電車の顔をのぞきこんでいた。ゆうべ東京から夜行バスで着いて、まだ少し眠い。それでも目はきらきらしていた。

Kanon

先生! 電車が道路を走っています!

Misa

路面電車ってそういうものよ。ほら、背中。眠くても、乗り場では背筋。

ミサは前の日から岡山にいた。振付の仕事が一本あって、それが終わった夜に、カノンへ短いメッセージを送った。「明日あいてるなら、来なさい。偵察するなら、この町よ」。カノンは金欠の財布を三回のぞいてから、夜行バスを予約した。

Kanon

『推し武道』、岡山市を拠点にしてる地下アイドルのグループと、そのファンのお話なんです。私、アニメで全部観てきました![1]

Kanon

テレビアニメは、私が中学生のころの冬にやってて、全十二話です。[1]

2020年冬放送

Misa

私はドラマのほうを観たわ。四年前の秋だったかしら。アニメは、まだちょっとね。でも人間がやってると、つい最後まで観ちゃうのよ。

ドラマは2022年秋放送

Kanon

えっ、先生も観てくださったんですか。私が好きだって言ったから……?

Misa

勘違いしないで。ドラマは全部観るの。それだけ。

ミサはそう言って、乗り場に入ってきた電車へ先に乗った。カノンは少しだけ口元をゆるめて、あとに続いた。

この町の路面電車は二路線あって、そのうちの東山本線は、岡山駅前から東山・おかでんミュージアム駅までを結んでいる。

二人は、表町の商店街に近い停留場の一つ、城下で降りた。

Misa

ドラマでは、この路面電車も、これから歩く表町の商店街も、撮影に使われたの。[1]

岡山表町商店街は、岡山市でいちばん大きな商店街で、アーケードの下を南北に一・四キロほど続いているのだという。もとは、戦国時代の終わりから整えられた岡山の城下町の、商人の町だった。

アーケードに入ると、日曜の昼らしく人が多かった。カノンは右を見て左を見て、何度か立ち止まりかけ、そのたびにミサに袖を引かれた。

Misa

立ち止まるなら、端。店の前と、人の流れの真ん中には止まらない。ここは、この町の人の毎日の通り道よ。撮るのも、通る人が切れてから。

Kanon

はいっ。……ライブハウスの前で並ぶときと、同じですね。近所の方の迷惑にならないように、って。

Misa

そう。好きな場所を守るのは、好きな人の歩き方なの。

歩きながら、話は作品の主人公のえりのことになった。

Kanon

えりぴよさんはフリーターさんで、パン工場でバイトしてるんです。舞菜ちゃんにチラシをもらって野外ライブを観に行って、それがきっかけで、お給料をほとんど全部、舞菜ちゃんの応援につぎ込むようになるんです。[1]

Misa

ああ、赤いジャージの子ね。どこへでも高校のジャージで行くの。応援のお金を作るために、私服を全部売っちゃったんですって。服を売るのは反対だけど、あの覚悟は嫌いじゃないわ。[1]

Kanon

私、えりぴよさんの気持ち、ちょっと分かります。偵察でライブに通ってると、いつも金欠なので……。

Misa

知ってる。だから今日の夜行バス代は、出世払いで貸しといてあげる。

カノンが「出世払い……!」と目を輝かせた、そのときだった。

声をかけてきた人

あの……すみません。カノンさん、ですよね。

振り返ると、大学生くらいの女の人が、紙袋を胸に抱えて立っていた。カノンは目を丸くした。その場で、背中から首までが、すっとまっすぐになった。

声をかけてきた人

夏に、東京で一回だけライブを観ました。こっちに住んでるから、なかなか行けなくて。でも、告知はずっと追いかけてて……ツインテールで、すぐ分かりました。

Kanon

よ、よくぞ遠路……じゃなくて、遠いのは私のほうで……ええと、苦しゅうな……ちがう、ありがとうございます!

言葉はめちゃくちゃだった。でも、そのあとの一礼だけは、見事だった。かかとをそろえ、背筋をそのまま前へ倒し、きっちり三つ数えて戻る。女の人は、つられて自分も深く頭を下げた。

ミサはそっと二人の背中に手を添えて、アーケードの柱の陰の、店の入口にかからない場所へ寄せた。

Misa

ここなら通る人の邪魔にならないわ。写真、撮ってあげましょうか。

女の人は、写真はいいんです、と首を振った。話したいことを、話したかっただけなので、と。そして、早口で一つだけ言った。

声をかけてきた人

夏のライブのMCで、ファンが少ないって笑って言ってたじゃないですか。少ないうちの一人です、って、それだけ言いたくて。……じゃあ、失礼します!

女の人は、紙袋を抱えたまま、人の流れの中へ早足で消えていった。カノンは同じ場所に立ったまま、しばらく動かなかった。

Kanon

……先生。私、いま、すごく偉そうでしたよね。よくぞ遠路、とか言いました。

Misa

言ったわね。

Kanon

あれ、塩対応だと思われてたら、どうしよう……。

ミサは答えるかわりに、近くの柱にもたれて腕を組んだ。

Misa

舞菜って子、いたでしょう。グループでいちばんファンが少なくて、内気で人見知り。えりには塩対応ばかりしてるように見えるのに、ほんとは嫌ってなんかいなくて、むしろ仲良くなりたいと思ってる。[1]

Misa

ドラマで観ながら、私、ずっと思ってたの。言葉なんて、緊張したらどうせ崩れるのよ。崩れたあとに、体が何をするか。それが伝わるの。

Misa

あなたの礼は、今日も百点だった。言葉が五十点でも、あの人はちゃんと受け取って、自分も頭を下げて帰っていったわ。見てたでしょう。

カノンは、口を開きかけて、閉じた。それから、ゆっくりうなずいた。本番の舞台では一度も泣いたことがない。ここは舞台ではなかったので、目のふちが少しだけ赤くなった。

Kanon

……私、子どものころ、まわりの大人がみんな頭を下げるばっかりで、目を合わせてくれなかったんです。だから、頭を下げられるのは、ちょっと苦手でした。

Kanon

でも、さっきのは違いました。あの人が頭を下げたの、私が下げたから、だったので。……同じ高さでした。

Misa

そうよ。礼って、本来そういうものなの。

二人はアーケードを南へ歩いた。カノンは何度も、さっきの柱のほうを振り返った。

Kanon

先生。お願いがあります。ありがとうの言い方、練習させてください。次に誰かに会えたとき、偉そうじゃなく言えるように。

Misa

高い声で可愛く、って言うんでしょう。

Kanon

……はい。可愛い声に、憧れてるので。

Misa

却下。あなたの声は低い。それを高くしようとするから、喉が固まって、変な言葉が出てくるの。低いまま言いなさい。お腹から、ゆっくり、相手の目を見て。礼は、言い終わってから。

アーケードの切れ目の、人の少ない角で、カノンは一度だけ練習した。低い声のまま、ゆっくり。ミサは何も直さなかった。直すところがなかったからではなく、直さないほうがいいと思ったからだった。

帰りの路面電車を待つあいだ、ミサが、さっき通りすがりに買っておいた紙袋をカノンに渡した。中には、丸いパンが二つ入っていた。

Misa

電車で、あなたが言ってたでしょう。えりはパン作りの才能だけは飛び抜けてて、舞菜の好きな食べ物もパンだって。……推す側と推される側が、同じものを好きって、いいわよね。[1]

Kanon

先生……私の話、ちゃんと聞いててくださったんですね。

Misa

うるさいわね。帰りの新幹線で食べなさい。電車の中じゃ食べないのよ。

路面電車が、道路のまんなかをゆっくり近づいてきた。カノンはパンの袋を胸に抱えて、低い声のまま、ミサに向かって言った。ありがとうございます。それから、きっちり三つ数えて、礼をした。

ミサは、レッスンのときと同じ顔で、小さくうなずいた。そして、カノンが顔を上げるより先に、いちばん近くで、少しだけ笑った。

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