九時半。近鉄奈良駅の改札を出たところで、レイは耳の軽さに慣れずにいた。エマの声は毎晩のようにヘッドセット越しに聞いている。顔を合わせて話すのは、まだ三回目だった。
レイ! おはよ! 見て見て、今日の予定。完璧でしょ?
差し出された携帯電話の画面に、行き先が十二か所並んでいた。最後の行は「京都で夜ごはん」だった。
多い。半分。
えー、半分? ゲームのときのレイ、もっと無茶な作戦立てるじゃん。
ゲームは、負けても次のラウンドがある。今日はない。
旅を言いだしたのはレイだった。先月、配信で一本の映画を観た。翌晩、試合の待ち時間にその話をしたら、エマが「それ、教えて?」と身を乗り出した。エマはその週のうちに観て、「奈良、行こう」と言ったのはエマのほうだった。
子どものころにシリーズを観ていた、大人の女の人が三人。偶然出会う場所は鎌倉の洋館なんだけど、三人は年齢も住んでる町もばらばら。一緒に旅に出るの。大人になって見失ったものを探しに。[1]
で、三人が行く場所は、全部どれみゆかりの場所なんだよね。奈良は、どれみたちが修学旅行で来たところ。[1]
『ドッカ~ン!』の第11話。映画の三人は、夏に奈良と京都へ行く。……私たちは、十一月だけど。[1]
奈良公園は、駅から東へ歩いて五分から十五分ほどだという。しばらく歩くと、歩道の先に、もう鹿が立っていた。
Oh my god……ほんとに普通に歩いてる。信号、待ってる? あの子。
エマが駆け寄りかけた。レイが、その上着の袖の端を指二本でつまんだ。
待って。奈良の鹿は、飼われてるわけじゃない。人に慣れてるだけの野生動物で、国の天然記念物。[2]
それと、発情期の九月から十一月は、鹿の気が立ってることもある。むやみに触らないで、っていう呼びかけを奈良県も出してる。マダニの病気のこともあるから。子鹿に人が触ると、母鹿が育てなくなることもあるって。[2]
……レイ、調べすぎ。でも了解。見るだけ、ね。
公園の大部分は芝生で、千二百頭ほどの鹿がその中を歩きまわっているらしい。エマは芝生の端で立ち止まり、鞄からスケッチブックを出した。鉛筆が動きはじめると、さっきまでの声の大きさが嘘のように静かになった。
二十分たっても、エマは描いていた。予定の三か所目の時刻は、もう過ぎていた。レイは何も言わずに携帯電話を出し、エマから送られてきた予定表の写しから、最後の一行を消した。「京都で夜ごはん」。エマがそれに気づくのは、帰り道のことになる。
見て、ここ。光が毛の先で止まってるの。ここを描かないのは、損。……あ、ごめん、時間?
いい。描いて。予定のほうを直す。
大仏殿のほうへ続く広い道で、エマはしゃがみこんだ。手前の鹿と、遠くの大きな屋根を一枚に収めたいらしい。その後ろから、制服の生徒たちの長い列が近づいていた。
エマ、邪魔。どいて。
自分で思ったより、大きな声が出た。エマはすぐに道の端へ下がり、生徒たちに「Sorry、ごめんなさい」と頭を下げた。列が通り過ぎるまで、二人とも何も言わなかった。エマのスケッチブックは閉じていた。
レイは、ゲームの中の声のまま、現実で話したことに気づいた。撃ち合いの最中なら、短い指示がいちばん速い。でもここは、撃ち合いの場所ではなかった。
……今の、言い方きつかった。ごめん。
言いたかったのは、撮るなら人の流れの外から、ってこと。ここは、みんなが歩く道。あの子たちには、一回しかない修学旅行の日かもしれないから。
うん。言ってることは百パー正しい。だから、ちょっと刺さった。……映画のミレさんみたいだった。
……ミレ。三人でいちばん年上。アメリカから戻ってきた帰国子女で、言葉が得意。ただ、空気を読まないで正しいことをそのまま口にするから、相手が不愉快になることがある。[1]
でもね、私は三人のうち、ミレさんにいちばん共感したの。アメリカで暮らしてたころ、DVDを日本から送ってもらって観てた、って設定でしょ。[1]
私も引っ越すたびに、知らない国で、知ってる絵の話ができる人を探してた。言葉が通じなくても、絵は通じるから。だから、知らない土地で同じものを好きな人に会えたときのうれしさは、分かるんだ。
レイは返事をしなかった。代わりに、道の端の、人の流れから外れたところを指さした。そこからなら、鹿と屋根が一枚に入る。エマが笑って、スケッチブックをもう一度開いた。
昼は、公園の手前の食堂に入った。定食を待つあいだに、エマが聞いた。三人のなかで、レイは誰なのか。
レイカ。いちばん年下で、絵画修復士を目指してる。どれみを、再放送と配信で観てた子。[1]
私も、『カードキャプターさくら』は再放送で出会った。放送に間に合わなかった側。……名前が近いのは、たまたま。
ここから私の解釈。あの三人、年齢も、住んでる町も、仕事もばらばらで、ふつうなら一生すれ違わない。共通点は、子どものころに同じものを観てたことだけ。それだけで、知らない人と一緒に旅に出られるところまで、距離が縮む。そこの速さが、あの映画でいちばん好き。……今の、長かった?
全然。私たちも同じじゃない? イベントで一回会っただけで、いまは毎晩撃ち合ってる。
それは、エマの腕がいいから。……それと、衣装の件だけど。
あー……それは、まだ。ごめん。人前に立つのは、ちょっと。
分かってる。無理にとは言ってない。聞いただけ。
代わりにさ、次の衣装のデザイン画、私に描かせて? 正面と横と後ろ。布のしわまで描くから。
……それは、すごく助かる。
エマの携帯電話が短く震えた。エマは「ちょっとごめんね」と店の外に出て、五分ほどで戻ってきた。何の電話だったのか、エマは言わなかった。レイも聞かなかった。人には、言わない予定がある。障害対応の夜に呼び出される自分も同じだった。
午後、エマは鹿せんべいを一束買った。差し出すと、鹿が首を下げた。餌をもらうときにお辞儀をする、というので奈良の鹿は知られているのだと、レイが小さな声で言った。
せんべいがなくなっても、一頭だけがついてきた。二人が止まると止まり、歩くと歩く。三メートルほど後ろを、一定の間隔で。エマが振り返って、真顔になった。
あの距離で尾行したら、普通ばれる。足音も消してないし、物陰も使ってない。……零点。って、なんで私、鹿を採点してるんだろ。
エマが空の両手を広げて見せると、鹿は芝生のほうへ戻っていった。レイは地図アプリを閉じた。
夕方、二人は猿沢池のほとりに出た。奈良公園は、この池や春日野のような平らな場所だけでなく、若草山のような山まで含んでいるらしい。池の向こうの空が、少しずつ色を変えていた。
ベンチに座ると、エマがスケッチブックを開いて差し出した。最初のページは芝生の鹿。毛の先の光まで描いてある。次のページは、大仏殿へ向かう道の鹿と屋根。その次のページで、レイは手を止めた。
鹿に後ろをつけられて、振り返って笑っている女の人が描いてあった。カメラの前で作る顔とは、まるで違う顔だった。
……これ、私?
うん。尾行されてたとき、笑ってたよ。気づいてなかった? 消してって言っても、消さないからね。今日いちばんの一枚だから。
レイはしばらく黙ってから、携帯電話の解釈メモを開いた。今日の分を一行打つ。三人が出会えたのは、同じものを観ていたから。二行目は、自分の読み。会ってから続くのは、たぶん、言い方を謝れたから。
次は京都ね。映画の三人も行ったとこ。……ところでレイ、京都の夜ごはん、消したでしょ。次は、それを一行目に入れるから。
予定は、六か所まで。
七!
……七。今夜、一ラウンドでも勝てたら。
公園の出口までの道で、さっきの鹿がまた少し離れてついてきた。今度はエマは振り返らなかった。代わりにレイが一度だけ振り返って、鹿の位置をエマに短く伝えた。ゲームのときと同じ、短い声で。今度は、それでよかった。