十月の土曜、午後三時。東京で仕事の講習を受けた帰りに、ミナトは乗り換えの赤羽の一つ手前、十条で電車を降りた。明日は栃木の母の家に顔を出す日で、帰りの道はどうせこのあたりを通る。
前の晩の夜中、三時すぎに、短いメッセージが届いていた。ひと月前にファミレスで三人で会ったあと、ハヤテが作ったグループの、ミコからだった。「ワンパンマンの元の版、どこから読めばいいの」。ミナトは朝の六時に起きて、それを読んだ。勧めはしない。聞かれたら答える。返事は一行だった。「明日、十条の近くを通ります。そのときでよければ」。
窓ぎわの席で、ミコは先に座っていた。変な柄のパジャマの上にパーカーを羽織り、フードを半分かぶっている。今日の柄は、逆立ちしている犬だった。テーブルの上には、注文用のタブレットが立ててあった。
来た。タブレットの店でよかった。呼び出しのボタンしかない店だったら、たぶん帰ってた。
注文、俺がやります。何にしますか
ドリンクバー。それだけ。それより、元の版の話。
先に聞いていいですか。どこまで知ってます
アニメは観た。描き直しの版は、紙で途中まで。先の話は、知ってからでいい。私、結末を先に聞いてから読むほうが落ち着くから。
じゃあ、先の話も全部します。止めたくなったら、止めてください
主人公のサイタマは、就活がうまくいかなかった青年。ある日、街で暴れてた怪人から子どもを一人助けて、ヒーローになりたかった子どものころの夢を思い出す。就活をやめて三年鍛えたら、髪が全部なくなって、どんな相手も一発で倒せるようになってた[1]
で、退屈してる。[1]
それ。いつも一発で決まるから、戦っても張りつめたものがなくなってる。俺が最初に引っかかったのは、そこです[1]
中学に上がった年の冬。切り抜きで一回見て、その晩のうちに元の版までさかのぼった。元はWebで、作者が一人で描いてる。いま本屋に並んでるのは、別の漫画家が描き直したほう[1]
ONEのWeb版は2009年7月から、村田雄介作画のリメイク版は2012年6月から『となりのヤングジャンプ』で連載
元の版の絵、どうなの。
もともと作者が、パソコンで漫画を描くソフトの練習に描きはじめたもの[1]
俺には、線が速く見える。要るものしか描いてない感じ
それを読んでた漫画家の村田さんが、ネットで作者に声をかけて、一緒に何か作ろうと持ちかけた。で、試しに一話描いて見せたのがきっかけで、描き直しの版が始まってる[1]
読んでた人が、描いた人に直接声をかけて、一話描いて見せる。……話ができすぎ。
できすぎてる。でも元をたどると、本当にそうなってる。俺はそういう道筋を見つけると、そこから動けなくなる
描き直しの版は、単行本にする前に、話そのものを描き直すこともある。最初に載った回では死んだ人が、単行本では生きてたりする。元の版のほうは、一度も描き直されてない[1]
同じ話が二つあって、片方だけが動きつづけてる。
近い。俺は二つを並べて、どこで分かれたかを見るのが好き。分かれたところに、描いた人が迷った跡が残ってる気がする
描き直しの版だと、サイタマには昔の話も書かれてる。中学生のころから集団になじめなくて、世の中の理不尽に反発しながら、もやもやして過ごしてた[1]
それ、元の版にもあるの。
俺は、描き直しの版のほうで覚えた。読んで、少しほっとした。強くなる前から、ずっと一人で立ってた人なんだって
……そう。一人に慣れてたから、評判なんか気にしないでいられるのかもね。慣れたくて慣れたわけじゃないだろうけど。
で、サイタマのどこ。強いとこ、じゃないでしょ。
趣味でヒーローをやってる、って言い張ってるとこ。プロになってからもそう。まわりの評判は気にしないで、自分がやりたいからやってる[1]
好きなものを、誰の好みにも合わせないで持ってる人。俺は、そういう人の話に弱い
分かる。でも私が好きなのは、そっちじゃなくて、お金がないとこ。
ずっとお金に困ってて、物語の途中までは、町はずれの廃墟みたいなところで細々と暮らしてる。協会に入る試験も、体の検査は満点なのに筆記がぼろぼろで、いちばん下の級にぎりぎり。[1]
いちばん強いのに、暮らしはぎりぎり。ろくでもない、とまでは言わないけど、ちゃんとはしてない。私は、そこがいい。
スーパーの特売も気にしてる
そう。手ごわい敵が本気を出したその日が、スーパーの特売日だって気づいて、一瞬で片づけるとこ。私、あれ好き。[1]
俺も、夜の半額の弁当は時間を決めて買いに行ってます。サイタマのあれは、暮らしの時計で戦ってる
私は、特売日は行かない。人が多い日だから。
真逆だ
ミコは鼻で短く笑って、ドリンクバーのほうへ立った。戻ってきたとき、両手に炭酸水のグラスを持っていた。一つをミナトの前に置いて、何も言わずに座った。
ここから中身に入ります。畳んでおくんで、開けるかどうかは任せます
中段為止中盤の展開(その一)點擊展開
ミナト「強さの秘密を聞かれて、サイタマは自分のやってきたトレーニングを正直に話す。でも、そんなもので強くなれるはずがないって、誰にも信じてもらえない。言った本人も、聞いた側も、困ったまま終わる」
ミナト「宇宙から、自分と互角に戦える相手を探して来た敵がいる。相手は、サイタマに何発殴られても倒れない。とうとう本気の一発まで出させる。それでも、最後はサイタマが勝つ。相手は、おまえが強すぎたんだ、という意味のことを言って息を引き取る。あとで弟子のジェノスに聞かれて、サイタマは、これまでで一番の相手だったかもしれない、と答える。でも、そのあとの様子を見ると、そこまで心に残ってはいない」
ミナト「俺は、ここで一回止めた。全部出して届いた相手が、届いた側の記憶に、あんまり残ってない。勝つって、そういう寂しさもあるんだと思った」[1]
……その止め方、分かる。
ジェノスは、そのあともサイタマの部屋に住みこんでる。自分から高い家賃を払うって言って、お金に弱いサイタマがあっさり許した[1]
家賃で弟子入り。最低で、最高。
次は、私の番。私がこの話でいちばん好きなのは、サイタマじゃなくて、サイタマの横にいる人。開けて。
中段為止中盤の展開(その二)點擊展開
ミコ「キング。世間では地上でいちばん強い男って言われてて、協会にも町の人にも一目置かれてる。でも本当は、けんかを一度もしたことのない、家でゲームばっかりしてる人。強い怪人が暴れた場所に何度も居合わせて、そのたびに倒したのはサイタマだったのに、協会がキングの手柄だと思いこんだ。キングも、悪い気はしなかったから、言いそびれたまま」
ミコ「それが、サイタマにばれる。ばれたのに、サイタマは順位の話には興味がなくて、むしろキングが一人で抱えてる後ろめたさのほうを気にする。それで二人は、家を行き来するゲーム友だちになる。キングはゲームだけは強くて、毎回サイタマをぼこぼこにする」
ミコ「私、ここがいちばん好き。弱いってばれた相手と、扱いを一つも変えないでゲームする。その人が弱いことと、雑に扱っていいことは、別」
ミナト「ゲームで勝てない相手ができて、サイタマのほうも少し生き返ってる」
ミコ「そう。それから、サイタマが強すぎて退屈だと打ち明けたとき、キングははっきり言う。もう一番強いからやることがない、って言って自分から変わろうとしない。人を助けることじゃなくて、戦いに意味を探してる。それは思い上がりだ、って。強さのいちばんじゃなくて、ヒーローとしていちばんいいほうを目指したら、って」[1]
俺の読みだと、サイタマの退屈は、分かりすぎる退屈。先が全部見えてると、何をしても新しくない
いや、それは違う。退屈なのは、戦うことにしか意味を探してないから。畳んだとこでキングが言ってたの、そこ。先が見えるかどうかじゃなくて、どこを見てるか。
どこを見てるか、か。……そこは、いま初めて言われた。次に読むとき、キングが出る回だけ、一コマずつ見る
キングの回、私も読み返す。今夜のぶんが一つ増えた。
窓の外で、自転車のかごに大根を挿した人が信号を待っていた。ミナトはスマホの画面を一度だけ下にスクロールして、伏せた。
最後の大きい戦いの話。二つの版で、いちばん分かれるところです
聞く。
結局·真相終盤の展開(長い戦いの決着)點擊展開
ミナト「ガロウは、子どものころ、ヒーローごっこで怪人の役を押しつけられて、悪者にされていじめられた。どれだけ頑張っても怪人はヒーローに勝てない世の中が理不尽だと思って、いちばん強い怪人になって、ヒーローを負かす側に回ると決める。それでも、いじめられてる子を助けたりもする」
ミナト「最後にサイタマと戦って、ぼろぼろになる。まわりのヒーローはとどめを刺せと言うけど、サイタマは刺さない。ガロウに、お前にも同じ使命があるのかと聞かれて、サイタマは、趣味だ、と答える」
ミナト「ガロウは泣きそうになりながら、そんなものをヒーローとは認めない。サイタマはそれを見て、ガロウの本当の望みはヒーローになることで、届かないから怪人のほうで手を打ったんだ、と見抜く。弱ったガロウを、ほかのヒーローたちが処刑しようとしたとき、止めに入ったのは、ガロウが前に助けた子どもだった」
ミコ「……弱ったとたんに、大勢で処刑。それを止めたのが、子ども一人」
ミナト「サイタマは、その子のおかげでお前が何者か分かったな、という意味のことを言う。ガロウはそれで、もう一回立ち上がって、姿を消す」
ミコ「強い人が、とどめを刺さないのは、優しさじゃなくて、筋だと思う。弱い相手に勝ってすっきりする話、私はいちばん苦手だから。この話は、すっきりさせてくれない。そこがいい」[1]
描き直しの版には、この決着のまわりに、もう一段ある。元の版にはない話
結局·真相結末に近い展開(描き直しの版だけの話)點擊展開
ミナト「描き直しの版では、ガロウが神の力に触れて、宇宙みたいな姿に変わる。この形は、元の版には出てこない」
ミナト「サイタマは、ジェノスのコアを左手に持ったまま、左手を使わずに戦う。殺さないように戦うのは、ガロウが助けた子の、倒すんじゃなくて止めてほしい、っていう遺言があるから」
ミナト「その子の命を奪ったのは、ガロウ自身が出した放射線だった。ガロウはそれをなかったことにしたくて、自分より強いサイタマに自分の技の理屈を写させて、時間を戻そうとする。そこへ神が現れて、ガロウの力を取り上げかける。ガロウは、不吉な未来の自分を倒してくれ、とサイタマに頼んで消える」
ミナト「時間は、ちゃんと戻る。過去に戻ったサイタマは、ガロウが放射線を出す前に、一発で終わらせる」
ミコ「……最初から最後まで、一発の人が、最後はいちばん手前の一発に帰る」
ミナト「それ。俺はそこで、元の版との差分に気づいた。元の版には、この戻り方は出てこない。描き直しの版は、戻って、一発目をやり直す。どっちも同じ人が考えた話なのに、ここで大きく分かれる」
ミコ「どっちが好き」
ミナト「決めてない。決めないで、二つ並べておく」[1]
並べておく、って言い方、いいね。片方を正解にしなくていい。
現場でも、図面の線は等倍で一本ずつ確かめる。二つの版も、同じ縮尺で並べないと、どこで分かれたか分からない
仕事の話になると、急に長い。
サイタマの話よりは短い
炭酸水の氷が、グラスの中で小さく鳴った。ミコはフードを少し後ろにずらし、テーブルの端に置いた自分のスマホを手に取った。
で、最初の質問。元の版、どこから読めばいいの。
一話目から。速く読んで、引っかかったところだけ止まればいい。どこで止まったかだけ、あとで聞かせてください
今夜読む。どうせ朝まで起きてるし。……止まったとこ、夜中に送るけど、寝てていいから。
明日は朝が早いんで、起きたら読みます。電車の中で返す。宇都宮線、長いから
ミコは返事のかわりに、タブレットの会計の画面を開いて、自分で押した。呼び出しのボタンは押せなくても、画面のボタンなら押せるらしかった。ミナトは右耳のイヤホンを入れかけて、やめて、ポケットに戻した。