十月の日曜。トウゴは前から言っていたとおり、ハヤテを低い山に連れていった。帰りの電車まで、あと二十分。麓の無人駅のベンチで、ハヤテが学校の進路面談の話をぽつりとこぼすと、トウゴはしばらく線路の先を見てから、自分の高校三年の冬の話を始めた。
進路の紙が白いまま
面談で、パイロットにどういう順番で近づくのか聞かれました。……うまく言えませんでした。
順番か。おまえは行き先が決まってる。それだけで、あのころの俺よりずっと先にいるぞ。
トウゴさんは、高校を出るとき、迷わなかったんですか。
迷った。いや、迷ってもいなかったな。止まってた。三年の秋に山岳部を引退して、進路の紙をもらって、そこから冬まで一字も書けなかった。山が好き、しか持ってなかったんだ。うちは農家で、俺は三男だ。畑は親父と兄貴たちで回る。残っても、出ていっても、家は困らない。どっちでもいいっていうのは、案外こたえるもんだ。
……どっちでもいい、ですか。
同級生は一人ずつ紙を出していく。担任には毎週、どうするんだと聞かれる。俺は考えてます、とだけ答えて、帰りのバスで窓についた雪をずっと見てた。考えてなんか、いなかったのにな。
……僕も、面談の前の晩は、目を閉じてコースを回っていました。回っていると、考えている気になれるので。
ははっ、同じだな。頭の中でぐるぐる回ってると、進んでる気がする。足は一歩も出てないのにな。
道が閉じた週末の夜
『もののけ姫』は、宮崎駿さんが原作・脚本・監督をつとめた、スタジオジブリのアニメーション映画だ。事实[1]
物語の始まりは、エミシの村。若者のアシタカは、村を襲った化け物を退けたとき、腕に呪いを受けてしまう。化け物の正体は、憎しみに取りつかれた猪の神だった。呪いは、いずれ命を奪う。アシタカは村にいられなくなり、呪いを断つ手立てを探しに、その猪の神がやって来た西へ向かう。事实[1]
暮れに大雪が来て、町へ下りる道が閉じた。学校にも行けない。昼は家じゅうで屋根の雪下ろしだ。夜になると、もうやることがない。居間の棚に、子どものころから何回も観たこの映画があった。進路の紙を卓袱台に出しっぱなしにしたまま、なんとなく再生した。
雪下ろしってのは、上から順番に落とすんだ。下から掘ると、上が崩れてくる。あの冬は屋根の上で順番ばかり考えてたのに、自分のことになると、どこから手をつけていいか分からなかった。
どうして、その晩はその映画だったんですか。
棚で目に入ったのが、それだったってだけだ。子どものころは、森が出てくるのを待って観てた。最初の村の場面なんか、早く終われと思ってたくらいだ。あの晩は逆だった。始まって間もないところで、手が止まった。
待たずに確かめに行く
村を離れるところで、寂しくなった、とか。
寂しいのとは違った。アシタカは、村を追われる。自分で選んで出ていくわけじゃない。それでも、呪いが体を回るのを、どこかに座りこんで待ったりはしないんだ。あれがどこから来たのか、確かめに西へ歩いていく。腕にあんなものを抱えたまま、山を越えていく。解读
俺はそれまで、決まるのを待ってた。いい話が向こうから歩いてくるのを、こたつに入って待ってた。画面の中の若いのは、追い出されても、待つほうを選ばない。……恥ずかしい話だが、そこで初めて、自分が待ってるだけだったと分かった。解读
子どものころと見え方が変わったのは、どうしてだと思いますか。
自分が出ていく側の歳になったからだろうな。子どもの目には、村を出る若いのは、ただの格好いい兄ちゃんだった。十八になると、あの背中の重さが分かる。持っていける物は少なくて、置いていく物のほうがずっと多い。解读
決められないことと、動けないことは、別なのかもしれません。
そうだ。決められないなら、決めるための場所を見に行けばいい。それなら、山しか知らない俺にもできると思った。映画の中の話の筋じゃない。あの若いのの歩き方が、そう言ってる気がしたんだ。解读
……カートでいうと、走る前にコースを歩くのと同じかもしれません。歩いておかないと、どこでブレーキを踏むか、体が決められないので。
いいな、それ! 下見だ。まさにそれだ。
その晩、観終わったら夜中で、外はまだ降ってた。卓袱台の前で、空のザックに荷物を詰める真似をした。持っていける物を三つだけ選ぶとしたら何にするか。山岳部の部室で、何回もやった遊びだ。あの晩は、三つとも決まらなかった。それでも詰める真似をしてるうちに、少しだけ眠くなった。
僕なら、ヘルメットと、工具と……すみません、もう少し考えます。
それでいい。決まらないうちは、決まらないと言えばいいんだ。
道が開いた朝の一番のバス
道が開いた朝、一番のバスで町へ下りた。学校の進路室の棚と、役場の前の掲示板を、端から全部見た。そこに自衛隊の説明会の案内があった。体を一から鍛えて、山で生きのびる技術も身につくと聞いて、話を聞きに行った。
一人で行ったんですか。
一人だ。バスの中で、聞くことを三つだけ紙に書いていった。山に入れるか。体はどこまで鍛えられるか。休みに家へ帰ってこられるか。最後のは、出がけに親父に聞いてこいと言われた。
その場で、決めたんですか。
いや。話を聞いて、家に帰って、あの映画の最初のところだけもう一回観た。それから紙に書いた。担任は、えらく驚いてたな。ずっと白紙だったやつが、急に一行だけ書いて持ってきたんだから。
映画が決めてくれた、ということですか。
違う。決めたのは俺の足だ。映画は、こたつから立ち上がるきっかけをくれただけだ。でも、あの冬にあれが棚になかったら、俺は春までこたつにいたと思う。
いまも迷ったら歩いてくる
いまも、迷うことはありますか。
しょっちゅうだ。訓練の組み方も、現場への入り方も、迷ってばかりだ。だから迷ったら、地図を広げる前に一回、その場所を歩いてくる。非番の日に、次に訓練をやる場所のまわりを走っておく。それだけで、頭の中の霧が半分くらい晴れる。
……僕も、頭の中で回ってばかりいないで、見に行ってみます。飛行機の学校の説明会が、冬にあるので。
付き合うぞ。飛行機のことは何も分からんが、帰りの道くらいは覚えておいてやる。
ありがとうございます。……トウゴさん、帰り道を覚えるのは得意そうです。
得意だ。帰る道を知らないで、山には入らないからな。
遠くで踏切が鳴りはじめた。トウゴは立ち上がって、ハヤテのザックの肩ひもを片方だけ締め直してやった。
よし、電車だ。帰ったら、まずは飯をしっかり食えよ。
決められない冬は、決めるための場所を一つ、自分の足で見に行く。それだけで、止まっていた足が少し動いた。