土曜の夜、閉店後の原宿の店。ルカーノが工房のミシンを止めたところに、子どものころ近所に住んでいた後輩のレンが、仕事帰りに寄りました。作業台には生地見本と一緒に、古いアニメの資料集が開いたまま。ルカーノは、一本のOVAの話を始めました。
発売の前に映画館で
『天使のたまご』は日本のOVAで、発売日は1985年12月15日、発売元は徳間書店です。原案・監督・脚本を務めたのは押井守さん、上映時間は71分。OVAなのに、ビデオが出る前に新宿東映ホール1で劇場にかかりました。押井さんが初めて鈴木敏夫さんと組んだのが、この作品です。鈴木さんは当時、徳間書店の編集者でした。企画書の段階で押井さんがつけた題は「水棲都市」で、今の題名を考えたのは鈴木さんでした。事实[1]
OVAって、ビデオで出す作品のことだよね。それが先に映画館にかかったんだ。
そう。服で言えば、店に並べる前にショーのランウェイを一度だけ歩かせたようなものかな。そういう出し方は好きだよ。喜好
舞台は、忘れ去られた廃墟の町。少女はそこで独り、卵を抱えて暮らしています。そこへ赤い戦車の少年が現れて、二人が出会うところから物語は動きだします。事实[1]
人物の説明が、ずいぶん少ないね。名前も「少年」と「少女」だけなんだ。作品中的观察
お話はここまでにしておくよ。僕が話したいのは、その先じゃなくて、画面がどうやって作られたかのほうだから。
一枚の絵が企画を変えた
最初は軽いコメディのつもりだった企画が、天野喜孝さんの絵を見て向きを変えました。この人物たちなら正面からファンタジーとして作るしかない、と押井さんは考えたそうです。事实[1]
天野喜孝さんは1952年生まれ。装幀家、イラストレーター、画家、キャラクターデザイナーとして活動し、舞台美術や衣裳のデザインにも仕事が及びます。15歳のころにタツノコプロダクションというアニメ制作会社へ入り、のちに『ファイナルファンタジー』シリーズでキャラクターをデザインしたことで広く知られるようになりました。2001年には映画『陰陽師』で衣裳デザインを受け持っています。事实[2]
舞台の美術も、衣裳もやる人なんだ。一枚の絵で監督に企画の向きを変えさせる。作り手としては、ちょっと妬けるくらい美しい話だよ。喜好
この作品の天野さんは「アートディレクション」の立場にあり、人物のデザインだけにとどまりませんでした。大道具や小道具の設計、イメージポスターの作画、髪や肌の色を含む映画全体の色の設定までを引き受けています。事实[1]
人物だけじゃなくて、持ち物と色まで一人で決めたんだ。役割の線の引き方が、ふつうと違うね。解读
白鯨の漁師のコート
街並みのお手本になったのは、写真集に収められたフランスの地方の町でした。海外でのロケハンは、予算どころか、はじめから考えにもなかったそうです。服にも注文があり、街の男たちのコートには、『白鯨』(ハーマン・メルヴィル)の漁師が着ていそうな、ずしりとした感じを出すよう、天野さんやアニメーターたちに指示が出ています。事实[1]
ごめん、『白鯨』は読んだことがない。漁師のコートがどう重たいのかも、知らない。
いいね、その正直さ。重たいコートはね、歩き方を変えるんだ。肩が落ちて、一歩が少しだけ遅くなる。衣装に重さを指定するのは、その人がどんな天気の中で、どんな仕事をしてきたかを指定することでもある。職業病だね、そこばかり気になる。解读
背景を受け持ったのは美術の小林七郎さんです。画用紙の背景に、油性のサインペンで描き込んだセル画をもう一枚かぶせて、壁の荒れ具合まで出しました。全部の背景がこのやり方です。事实[1]
絵の上に、もう一枚、透明な層を重ねて壁を荒らす。油絵で言えば、下塗りが乾いてから上に置く絵の具みたいなものだよ。……昔、少しだけ油絵をやっていたからね。解读
伏線を置かない作り方
伏線を置いて結末で回収する、という定石を、押井さんは脚本でできるだけ外しました。かわりに、イメージとイメージを突き合わせています。カットの数も少なめで、71分でおよそ400。ふつうの映画の3分の1ほどです。事实[1]
僕はいつも、伏線に印をつけながら観るんだ。どこに何が置かれて、どこで回収されるか。それを最初から外してある作品だと聞くと、正直、どこにペンを置けばいいか迷う。喜好
君は昔から地図を描く子だったからね。読んだ物語の地図に、僕が勇者のマントを描き足したの、覚えてる? あのとき貸した色鉛筆、まだ返ってきてないけど。
……覚えてる。今度返す。
返さなくていいよ。あれは話の種なんだ。それより、この作品は地図を置いて観てほしい。一枚ずつ、生地を手で確かめるみたいに。喜好
分かった。今回はノートを閉じて観る。そのかわり、見る場所を一つだけ決めて。僕も人に勧めるときは、そうしてるから。喜好
じゃあ、街の男たちのコート。『白鯨』の漁師の重さを、と頼まれた服が、どんなふうに見えるか。観終わったら、君の目に映った重さを教えて。喜好
うん。それと、色鉛筆も持ってくるよ。
『天使のたまご』で天野喜孝さんが担ったのは「アートディレクション」。街の男たちのコートには、『白鯨』の漁師の重たいコートの感じを出すよう指示が出ていた。