定休日の工房
定休日の札が下がった店の奥で、ルカーノは作業台の布を端に寄せ、丸椅子を三つ並べた。約束の時間ちょうどに、ガクが紙袋を提げて入ってきた。その後ろに、作業着の男の人が、花の束を両腕で抱えて立っていた。
紹介するよ。こちらがタカシさん。花の会社をやってる人で、僕が歴史の話を始めると、僕よりもっと古い時代まで連れていってくれる人。
タカシです。今日はお時間をいただいて、ありがとうございます。……お店のお祝いには遅すぎますが、店先にでも置いていただければと。
Grazie! ルカーノです。……この束、茎の切り口が全部同じ角度だ。挿した人の手が見えるよ。
温室の者が喜びます。うちでは、花の提案書に、挿した人の名前を書く欄をつけているんです。名前が残ると、手がひとつ丁寧になるので。
名前の欄か。服でいえば、裏のタグに縫った人の名前を入れるようなものだね。いい選択だ。
ルカーノがガクにこぼしたのは、ひと月前のことだった。イタリアの小さな工房から生地を取り寄せるとき、いつも届くまでの道筋を組んでもらっている。その相談のついでに、ぽろりと言った。「店をやってると、誰にも聞けないことが増えるんだ」。ガクは帰りの電車でタカシの顔を思い浮かべ、その晩のうちに二人の予定を合わせた。
僕は経営のことは分からないから、今日は口を挟まない。その代わり、話の入口を一冊持ってきた。
ガクが紙袋から出したのは、制服の女の子が表紙に描かれた本だった。タカシの眉が、ほんの少し上がった。
……これは、懐かしいものを。
間違って買った一冊
高校の野球部で、マネージャーをしていた親友の夕紀が、病気で入院する。頼まれて、代わりにマネージャーを引き受けるのが主人公のみなみ。[1]
しかも、みなみさんは野球が嫌いなまま引き受けます。好きでもないものの責任を、人に頼まれて背負う。私は最初の数ページで、もう他人事ではなくなりました。[2]
で、マネージャーの勉強をしようと本屋に行って、手に取ったのが、よりによってドラッカーの『マネジメント』。経営する人のための本で、難しくて後悔するところ、僕はあそこで声を出して笑った。[3]
後悔しながら読み進めるうちに、野球部のことにも生かせると気づいていく。目指すのは甲子園。[3]
私が読んだのは、会社を大きくしようと走っていたころです。若い社員が休憩室の机に置いていった一冊を、昼に少しだけ、のつもりで開いて。……気づいたら、夕方の現場に遅れていました。
遅れたんですか。タカシさんが。
一度だけです。その一度を、いまでもよく覚えています。
僕は、初めて部下ができたころだった。同じ課の若い人が三人、同じ本を鞄に入れてた。課長に隠れて読むような本でもないのに、みんな表紙を内側にして持ってた。
隠すの? 表紙がかわいいから?
たぶん。それで課の会議で一人が、うっかり「うちの野球部は」って言いかけて、全員が下を向いた。
僕は本より先にアニメだった。美大で油絵を描いてたころで、下宿で夜遅くまで課題をやりながら、テレビをつけっぱなしにしてたら始まった。[1]
テレビアニメはNHK総合で2011年4月25日〜5月6日に放送、全10話。アニメーション制作はProduction I.G
夏服の白が、教室と夕方のグラウンドで、ちゃんと違う白に塗られてて。手が止まって、パレットの上で絵の具が乾いた。
私も映画はまだです。……三人とも、同じ話を違う入口から知っているのは、面白いことですね。
マネージャーという言葉
この話でいちばん唸ったのは、マネージャーという言葉の意味が、途中で入れ替わるところです。みなみさんは、道具や記録の世話をする係のつもりで引き受けて、そのうち、会社の経営と同じやり方で、野球部そのものを動かそうとしはじめる。[1]
同じ言葉なのに、持ち場がまるで違う。言葉の中身が入れ替わると、本人の立っている場所まで変わるんだね。
僕の名刺にも、デザイナーとオーナーって二つ並んでる。デザイナーの僕は布の前にいて、オーナーの僕は……正直、どこにいるのかよく分からない。
オーナーのルカーノさんは、たぶん帳場ではなくて、通りから工房をのぞく人の、すぐ後ろに立っているのでしょう。
後ろに? ……それなら、ちょっと格好いい。今日からそういうことにする。
みなみが最初にやるのが、野球部は何のための組織なのかを決めること。そこから全部が始まる。[1]
何のための組織か
最初にそこを決める、というのが、私にはいちばん耳の痛いところでした。
会社を始めたころは、花を届けたい、の一言で全部説明がつきました。人が増えて、取引先が増えるうちに、何のための会社かと聞かれると、数字で答えるようになっていました。数字は嘘をつきません。ただ、数字で答えた日は、現場の誰の顔も浮かんでいなかった。
数字で答えた日、か。……僕は、まだ数字ですら答えられないかもしれない。
ルカーノの店は、何のための店?
服を売る店……じゃないんだよね、たぶん。売るだけなら、もっと楽にやれる。店の奥を工房にして、通りから縫ってるところが見えるようにしたのは、作る途中も見てほしかったから。服は、出来上がる前のほうが正直なんだ。
それは、もう答えになっていますよ。
なってる? 声に出したら、急に恥ずかしくなってきた。
僕の持ち場だと、止めないこと、かな。物が途中で止まると、その先で待ってる人の一日が止まる。食堂でいうと、洗い場が止まったら、厨房ぜんぶが止まるのと同じで――
昔の国が街道に宿場を置いたのも、根は同じです。馬と人を替える場所を、一日で進める距離ごとに決めて……
道の制度ですね。宿場の決まりは、運ぶ側より、泊める村の負担のほうが重くて――
待って待って。二人とも、いま何百年さかのぼった? 僕、まだ自分の店の話の途中なんだけど。
……また、そちらへ行くところでした。失礼しました。
……止めてもらえて助かった。僕らだけだと、たぶん今ごろ古代だった。
大きな目標の言い方
そういえば、みなみは最初から、甲子園に連れていくって言うんだよね。部員の反応は冷めたままなのに。[1]
やる気をなくしてる部員の前で、いちばん遠い目標を先に置く。順番としては乱暴なんだけど、置かないと、どっちへ歩くかも決まらない。
私も、会社を始める前の晩に、仲間に大きなことを言いました。世界を変える会社をつくる、と。聞いていたのは仲間と、閉店まぎわの店の人だけでした。
いいね。それ、言われた仲間はどんな顔をした?
笑っていました。笑いながら、翌朝には誰より早く市場に来ていた。……大きな目標は、言った人より、聞かされた人のほうが重く背負うものかもしれません。私はそれに、ずいぶんあとまで気づきませんでした。
目標が大きいと、隅で働いてる一人が見えなくなる。小さすぎると、誰も遠くへ行けない。制度を作るときも、いつもそこで揉めるんだ。
僕が店を開けた日の目標は、通りから一人でいいから、工房をのぞいてくれる人がいたらいい、だった。
それは、何人でしたか。
初日は三人。一人は道を聞きに来た人で、一人は宅配の人。三人目は、ふらっと入ってきた旅行中の人で、縫いかけの袖をしばらく黙って見ていった。……数えてみたら、ちゃんと目標は超えてた。
小さい目標の、いいところだね。超えたかどうかが、その日のうちに分かる。
みなみさんの目標が遠くても話がだれないのは、たぶんそこでしょう。甲子園は遠いままですが、目の前の一人に何を聞くか、という小さな目標を、毎回きちんと立てている。
遠い目標と、今日の一人。服でいえば、全体のシルエットと、最初のひと針。どっちか片方だと、着られる服にならない。
僕なんかは、最初のひと針ばかり見てるほうだな。全体の形は、だいたい誰かに言われて気づく。
私は逆で、形ばかり語って、ひと針目を人に任せきりにしていました。……今日は、ちょうど足りないところを持ち寄ったのかもしれませんね。
面談は病室で
何のための組織かが決まったら、次はマーケティング。みなみは、部員の一人ひとりが野球部に何を求めてるのかを聞こうとする。[2]
聞くのは、入院してる夕紀なんだよね。病室に部員を一人ずつ呼んで、お見舞いのついでに話を聞く。[1]
私が膝を打ったのは、そこです。みなみさんは、聞く役を、部員が本音を言える相手に任せる。上に立つ人間が自分で聞いても、本当のことはなかなか出てきませんから。
私も、面談で本音を聞けたと思い込んでいたことがあります。あとになって、あの席で言えるわけがなかった、と別の社員から聞かされました。
僕は若い人と話すとき、最初に「今日は何の作業をした?」って聞くようにしてる。どうしたいかを聞くと、正解を探して黙っちゃうから。作業の話なら、誰でも答えられる。
それ、採寸と同じだ。「どんな服がいい?」って聞くより、「今日はどこまで歩いた?」って聞くほうが、その人の脚に合う裾の長さが分かる。
裾の長さ、ですか。……それは、うちの面談の紙に書き足したい言い方です。
お店でも同じでね。お客さんに最初に「何がほしいですか」って聞くと、雑誌で見た服の名前が返ってくる。だから、今日はどこへ行く途中ですか、って聞く。そのほうが、その人の一日に合う色が分かる。
何がほしいかより、どこへ行く途中か。……みなみの面談も、そういう聞き方を探していたのかもしれないね。
僕は昔、アルバイトに来た子の初日に、いつもの調子でまず褒めたんだ。そしたら、ものすごく冷たく返された。それから、その子とは縫い目と型紙の話しかしてない。
でも、それがよかったみたいで。いまでも衣装の相談に来てくれる。型紙の話だけで、何年も続いてる。
何を求めていないかを、聞けたわけですね。
聞いたっていうか、言われたんだけどね。ははは。
面談で大きいのが、エースの浅野。練習に、ほとんど顔を出さなくなってる。[1]
試合の途中で、監督に交代させられたんでしたね。それが不服で、監督を嫌うようになった。[2]
有能な指揮官は、よい上司なのか。私がずっと考えている問いです。監督にどんな理由があったにしても、不服だと受け取った本人には、罰に見えたはずです。理由が届かないまま下げられると、人は、下げられたことしか覚えていません。
私も同じことをしました。正しいと思って、部下の決めたことを皆の前で差し替えて、理由を言わなかった。その人は、しばらく会議で口を開かなくなりました。
決まりとしては正しくても、受け取る側の一人から見ると、まるで別のものになる。……タカシさん、その人とは、そのあと?
謝りました。ずいぶん遅れて。いまは、その人のほうが、私より会議でよく話します。
遅れてでも、届いたんだね。
タカシは答えずに、作業着の胸ポケットのペンに指を置いた。抜きはしなかった。
強みと、新しいやり方
アニメだと、各話の題が全部「みなみは」で始まるんだ。人の強みを生かそうとした、イノベーションに取り組んだ、って。[1]
第3話「みなみは人の強みを生かそうとした」、第4話「みなみはイノベーションに取り組んだ」
主語がいつも同じ。経営の本の章の題みたいに見えて、ちゃんと一人の女の子の日記になってる。題の並べ方として、うまいなあ。
強みを生かす、っていうのは、僕には弱みの話でもあってね。僕は説明が長い。若い人に三分しゃべって、あとで聞いたら最初の一文しか残ってなかったことがある。
最初の一文は残ったんだ。
そう。だからいまは、最初の一文だけ考えて行く。長くなるのは止められないけど、残る場所を先に決めておく。
強み、という言葉は、私には少し怖い言葉です。私は、挑戦する若い人を見ると、つい応援しすぎてしまう。その人の強みを見る前に、自分の若いころを重ねてしまう。
応援しすぎって、どのくらい?
相談に来た人に、聞かれる前から道具を贈ろうとしたことがあります。……今日も、実は少し危なかった。このお店の帳簿を見せていただけたら、と言いかけて、さっき飲みこみました。
見せてもいいよ。見たら、たぶん笑うけど。
いえ、今日はそれは控えます。帳簿より先に、困っていることを聞かせてください。
ルカーノは作業台の上の布の端をつまんで、しばらく指でこすり合わせていた。陽気な声が、少しだけ低くなった。
全部、一人で決めてることかな。布も、色も、値札も、閉める時間も。僕が好きなものでこの店はできてて、それは誇りなんだけど、決め方が合ってるかどうかを確かめる相手がいない。
工房から布が届くたびにうれしくて、うれしいまま次も頼んでしまう。ガクさんが道筋を組んでくれるから、なおさら。
道筋は組めるけど、量までは組めないからね。そこは僕の持ち場の外だ。
みなみさんがイノベーションに取り組むのも、たぶん同じ場所だと思います。いままでのやり方を、好きだからこそ一度疑ってみる。疑ってみて、やっぱりそれでよければ、それで構いません。
服でいえば、いちばん好きな型紙を、一回ほどいてみる感じだね。ほどいたら、縫い代の癖が見える。
ええ。それから、決め方を確かめる相手のことですが。……私でよければ、月に一度、ここで布の話を聞かせてください。助言はしません。聞くだけです。
聞くだけ? 社長さんが?
聞くほうが、私には難しいんです。だから練習させてください。
店先の花
日が傾くころ、ルカーノは店先の棚にタカシの花を置いた。通りを行く人が、一人、二人と足を止めて、花と、その奥の工房の明かりを見ていった。
タカシさん。名前の欄、僕もやってみていい? 服の裏地の端に、縫った人の名前を小さく入れる。
喜んで。……着る人は、たぶん気づかないでしょうね。
気づかなくていいんだ。縫った人が知ってれば、手がひとつ丁寧になる。さっき、そう教わったから。
その本、置いていくよ。ルカーノの棚に。
画集の棚に並べたら、表紙が一冊だけ浮くよ。……まあ、一冊くらい浮いてるほうが、棚も楽しいか。
僕は二度目に読んだとき、病室で話を聞く役の人のほうばかり見てた。
僕は、明日の最初の作業を決めてから帰るのが好きなんだ。二人は、明日の最初の作業は何にする?
明日の朝いちばんは、届いてる布の請求書を開く。いつもは、布の包みを先に開けちゃうんだ。今回は、順番を逆にしてみる。
私は、週の初めの会議で、一人ずつ、先週どんな作業をしたかを聞いてみます。ガクさんの聞き方を、お借りしてもよろしいでしょうか。
どうぞ。借りてもらえたら、言葉のほうも喜ぶと思う。僕は、いつもより一本早い電車に乗って、誰もいないうちに、明日止まりそうな所を一つだけ探しておく。
三人とも、明日のひと針目が決まったね。
こうして口に出してしまうと、守らないわけにいきません。
ルカーノは作業台の端の紙に、三人の明日の作業を一行ずつ書いて、壁のピンに留めた。画集と映画のパンフレットが重なる壁の中で、その紙だけがまだ白かった。
帰り道、駅までの坂で、タカシは胸ポケットの小さなメモ帳を出し、何かを一行だけ書いた。ガクは見ないふりをして、紙の地図を一枚、鞄の奥に押しこんだ。
月に一度、聞くだけ。……守れるように、先に書いておきました。