レッスンが終わってスタジオの扉を開けると、ガードレールに兄がもたれていた。片手にコンビニの袋。アカリの好きなパンが、袋の上から透けて見える。
……なんでいるの。
……別に。通りかかっただけ。
ここは兄の大学からも家からも、まったく通り道ではない。来週は発表会だ。アカリが緊張している週になると、兄はいつもこうして、好物を持って黙って現れる。
そのとき、背中のほうで扉がもう一度開いた。
アカリ、タオル忘れてる。……あら。あなたがお兄さん?
……どうも。妹がお世話になってます。
ミサ先生は、兄を頭のてっぺんから靴の先まで、ゆっくり一往復見た。レッスンで新しい生徒の立ち姿を見るときと、同じ目だった。
肩が前に落ちてる。それと、唇が割れてる。寝てないでしょ。
……平気です。
平気な人の唇じゃないの。はい、これ。新しいのだから、あげる。
ミサ先生は鞄からリップクリームを出して、兄の手に握らせた。兄は三秒ほどそれを見つめてから、言われたとおりに塗った。
アカリの心臓が、さっきのレッスンの最後の通しより速くなった。
駅まで一緒に行きましょ。私も買い物があるの。……ほら、背中。定規が一本入ってると思って歩いて。
ミサ先生が、兄の背中の真ん中を指先で一度だけ押した。兄の背筋が、音がしそうなほどまっすぐになった。アカリは、二人の二歩うしろを歩くことにした。
ミサ先生の「買い物」は、ドラッグストアのハンドクリームの棚の前で始まった。先生は迷わず三本を手に取り、兄の手の甲に、順番に少しずつ塗った。
どれがいい? 香りで選んでいいわよ。
……どれでも。
どれでもいい人はいないの。選びなさい。
……じゃあ、いちばん匂いの薄いやつ。
正解。あなた、強い香りは似合わない顔してる。
アカリは棚の陰から、二人の手元を見ていた。兄の手の甲に、先生の指が三回触れた。三回とも、兄の表情は一ミリも変わらなかった。変わったのは、アカリの耳の温度だけだった。
で、あなたは普段なに観てるの。アカリから、本ばっかり読んでるって聞いたけど。
アニメを、一話ずつ。……長い映画は、途中で止めちゃうんで。
二時間がだめなの? 私が観てる韓国のドラマなんて、一話で一時間あるわよ。それが十何話。
……一話ずつなら、たぶん。区切りがあれば、いける。
じゃあ今度、一話目だけ貸してあげる。最初の一話で、主人公の立ち方が変わる瞬間があるの。脚本がどうとか、あなたなら私より細かく言えるでしょ。
……言えるかもしれません。
貸してあげる。今度。アカリの頭の中で、その二つの言葉だけが大きな字幕になって流れた。
十分のあいだに、兄の手の中のものは増えていった。いちばん匂いの薄いハンドクリーム。肌が乾いていると言われて渡された、豆乳の小さなパック。そしていま、肉屋の店先で揚がったばかりのコロッケ。
ちゃんと食べてないでしょ。熱いうちに。
……どうも。
それと、寝ぐせ。
ミサ先生の手が、兄の後ろ頭のはねた髪を、二回なでつけた。兄はコロッケを持ったまま動かない。アカリは、自分の口が少し開いていることに気づいて閉じた。
……寝ぐせです。
知ってる。だから直してるの。
これは、あれだ。アカリは先月の更衣室を思い出していた。ミサ先生が着替えも途中のまま、三十分しゃべり続けた映画の話。
あとで家に帰って、題名だけ調べた。韓国の映画で、チャン・グンソクとキム・ハヌルが出ている。元は日本の漫画で、作者は小川彌生。仕事のできる女の人が、家の前の段ボールに転がっていた青年を見つけて、ペットとして一緒に暮らそうと持ちかける。青年はそれを、あっさり受け入れる。
兄は段ボールには入っていない。入っていないけれど、いまリップを塗られて、背中を押されて、コロッケを持たされて、寝ぐせを直されている。しかも、何ひとつ断っていない。
……先生。
なに?
お兄ちゃんを、飼わないでください。
ミサ先生は一瞬きょとんとして、それから商店街じゅうに聞こえる声で笑った。肉屋のおじさんまで顔を上げた。
飼う? 私が? ……ああ、『きみはペット』ね。あなた、あれ観たの?
観てない。先生が更衣室で三十分しゃべってたから、どういう話か調べただけ。
……題名の「きみ」、ひらがななんだよ。漢字で「君」って書くと、もう少し命令っぽく見える。ひらがなだと、呼びかけてるだけに聞こえる。
いま、そこ?
そこだろ。題名は最初の一行だから。
さすが文学部。……あれはね、飼う話に見えて、外ではしっかりしてる大人が、弱いところを誰かに預ける話よ。私はそう観たの。だから飼う側のほうが、よっぽど危なっかしいの。
じゃあ、なんでお兄ちゃんにこんなにいろいろ……。
ミサ先生は、兄の背中をもう一度見た。さっきより少しだけ、声がやわらかくなった。
背中がね、うちの子に似てるのよ。丸いところが。うちの子も若いころ、何回言っても直らなかった。そういう背中を見ると、手が先に出るの。癖ね。
……俺、息子の枠だったんですか。
どっちでもないわよ。あなたはアカリのお兄さん。それ以上でも以下でもないの。リップは返さなくていいけど。
アカリの肩から、何かがすとんと落ちた。落ちてから、自分がずっと肩に力を入れていたことに気づいた。
……アカリ、顔赤いぞ。
レッスンのせい。
レッスン、とっくに終わってるだろ。
……コロッケのせい。
半分あげなさい、お兄さん。妹のほうが今日はよく動いたんだから。
兄は黙ってコロッケを半分に割り、大きいほうをアカリに渡した。揚げたての衣が、さくりと鳴った。食べているあいだだけ、アカリは何も考えずにすんだ。
アカリ。来週は、強く踊るのよ。可愛く見せなくていい。あなたのいちばん強い一拍を、私はいちばん前で見てるから。
……はい。
兄が、ずっと持っていたコンビニの袋を、黙ってアカリの手に押しつけた。
……これ。本番の朝に食えば。
あら、いいお兄さん。
……別に。
ミサ先生は手を振って、反対側のホームへ歩いていった。背中がまっすぐなまま、人の流れの中でも一人だけ姿勢が違って見えた。
あの人が通ったあと、空気まで背筋が伸びてる気がする。……柄じゃなかった。取り消す。
忘れない。
リップ塗った?
塗った
ハンドクリームも?
……塗った
しつけられてる
されてない 背中まっすぐで歩いたら、駅が近かった。それだけ
今日、私だけずっとドキドキしてた。損した
何に
(表情贴图:猫が目をそらしている)
発表会、行く パンは当日も買っていく
アカリはスマホを伏せて、袋の中のパンを一つだけ、本番の朝のために冷蔵庫の奥へしまった。兄の背中のことは、もう心配しないことにした。たぶん来週も、少しだけまっすぐになっている。