十一時すぎ。竜山は防府駅の北口の前で、文庫本を閉じた。この出口には、防府天満宮から取った「てんじんぐち」という呼び名がある。改札のほうから、風呂敷包みを提げたシズカが、背筋をまっすぐ伸ばして歩いてきた。
竜山さん、お待たせいたしました。わざわざ旅の道を曲げていただいて。
事の起こりは六月だった。テレビで『マイマイ新子と千年の魔法』が放送された日、シズカは子どもたちと一緒に観た。いちばん下の子に聞かれた。麦畑の下に千年前の街があるって、ほんと?
私、答えられなかったんです。観ていたはずなのに、覚えているのは、おじいさんが孫に何か話していたことと、麦畑の色だけで。
昭和三十年の防府の話じゃ。新子という娘が、じいさんに千年前の都のことを話して聞かされる。この辺りは昔、周防の国というての、国衙の跡も、そのころの地名も、いまに残っとる。一面の麦畑の下に、千年前の街が眠っておる、とな。[1]
そうでしたね。新子ちゃんは、昔そこで暮らしていた、自分と同じくらいの年のお姫さまを思い描くんです。それから、東京から転校してきた女の子とお友だちになるんですよね。[1]
昭和三十年なら、俺は十五じゃ。こっちは東京の下町で、紙芝居と貸本屋の子どもじゃった。麦畑はなかったが、空き地はあった。……いかん、昔の話は長うなる。歩こう。
周防国衙跡があるのは、防府平野のほぼ真ん中。多々良山の南に開けた土地だ。律令の時代に役所が置かれていた跡で、いまは国の史跡に指定されている。
奈良時代から、周防の国の国府が置かれた町じゃ。防府という名前も、周防の国府にちなんどる。[4]
いまは史跡公園になっていて、安永七年、一七七八年に建てられた国庁の碑が残っている。竜山は碑の前で足をそろえ、軽く頭を下げた。シズカも同じ角度で頭を下げた。
……でも、竜山さん。これだけですか。千年前の街の、証拠というのは。
これだけ、と思うじゃろう。ところが調べると、国府の広さは八町四方、八百五十メートル四方ほどと見られとる。朱雀大路という大通りまで通っとったことが分かったそうじゃ。[2]
それにの、敷地の四つの隅、東北・東南・西南・西北には、周防国庁跡の碑が一基ずつ建っとるらしいわい。[2]
まあ。では、角を四つ曲がってから、お昼にしましょう。
一つめの碑は、すぐに見つかった。二つめへ向かう途中、道の脇に、刈り入れの終わった畑が広がっていた。黒い土が、十一月の日差しを吸っている。竜山は、ふと足を止めた。
新子は、麦畑の下に街を想像するじゃろう。畑のまんなかに立てば、下の街の気配が分かるかもしれん。ちょいと、畦から一歩だけ……
……竜山さん。
声は低く、静かだった。それだけで、竜山の片足は畦の手前で止まった。この声には勝てない。そういう声がこの世にあることを、竜山はゲンの家で知っていた。
その畑は、どなたかが来年の分を育てている場所です。映画の麦畑とは違います。この道も、ここに暮らす方が毎日通る道ですから、立ち止まるなら端に寄りましょう。
……うむ。すまん。善い策ではなかった。ははは、奥方の言うとおりじゃ。この家で、いや、この旅でいちばん肝が据わっとるのは、やっぱり奥方じゃな。
二つめの碑を過ぎたあたりで、シズカが立ち止まり、それから小さく「あ」と言った。
思い出しました。直角に曲がる川がありますよね。映画のおじいさんは新子ちゃんに、あの川は千年前に都があったころの街道の名残だって教えるんです。[1]
映画のあの川が、本当にそうだったのかどうかは、俺には分からん。分からんが、昔の人の引いた線が、角の形で残ることはある。話は消えても、角は残る。……と、俺は勝手に思うとる。
三つめ、四つめの碑を回り終えて、二人は史跡公園のベンチに戻った。風呂敷から、俵のおにぎりと卵焼きが出てきた。竜山は水筒を出し、何も言わずにシズカの分の茶を先に注いだ。
このあたりにはな、清少納言も来たかもしれんそうじゃ。周防守になって赴任したのが父親の清原元輔で、娘もそれについて来たと見られとる。[4]
新子ちゃんが想像するお姫さまも、京の都を離れて、お父さまと周防の国に来た子でしたね。[1]
うむ。あの映画で俺が見とったのは、じいさんじゃ。あのじいさんは、孫に金も土地も渡さん。渡すのは、地面の見方だけじゃ。麦畑を見て、その下に街を見る目。師が弟子に渡せるもんは、結局そのくらいかもしれん。
私の祖母も、そうでした。箸の置き方と、背筋と。それしか教わっていないのに、困ったときは、いつもそこに戻ります。
……この映画は最初、三十館あまりの小さな公開で、四週間で終わってしもうたそうじゃ。観た客がネットで署名を集めて上映を続けさせ、とうとう二年のロングランになった。[1]
この防府では、まさにこの国衙の真ん中で野外上映をやったり、佐波神社なんかの実在の場所を訪ね歩く会を何度も開いたりしたらしい。負け戦を、客と町が勝ち戦に変えたんじゃ。うまい策じゃ。[1]
昼を食べ終えると、二人は北の多々良山のほうへ歩き、佐波神社に寄った。周防の国の総社で、多々良山の南のふもとに鎮まっている。
鳥居を出たところで、シズカの携帯電話が鳴った。画面に、いちばん下の子の顔が映った。
あのね。千年前の街は、ほんとうにあったのよ。いまは土の下にあって、見えないの。でもね、街の角は残っていて、お母さんは今日、その角を四つ、ちゃんと曲がってきました。
画面の向こうで、小さな顔がしばらく考えて、「じゃあ、こんど一緒に曲がる」と言った。シズカは「そうしましょう」と答えた。
……答えられました。映画の中身は忘れていたのに。
中身を覚えとらんでも、見方は覚えとった。それでええ。あのじいさんも、孫が話の筋を覚えとるかどうかなんぞ、気にしとらんかったはずじゃ。
駅へ戻る道で、竜山は鞄から一冊の文庫を出した。出がけに東京の本屋で買っておいた、原作の小説だった。新潮文庫から出た一冊だと、竜山は表紙を見せながら言った。
その子が、新子より大きゅうなったら渡してやってくれ。見方は渡したんじゃ。あとは、本のほうが勝手に教える。
では、それまで私が預かって、先に読んでおきます。……読んでも、すぐ忘れてしまうかもしれませんけれど。
ははは、ええじゃないか。忘れたら、また角を曲がりに来ればええ。
てんじんぐちの前で、二人は向かい合って一礼した。シズカは上りの電車に、竜山は下りの電車に乗った。竜山は窓の外の平らな土地を眺めながら、どの角が千年前の角だったのかを、終点の近くまで数えていた。