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日常

マーカーで書く色の名前

剧透范围 无剧透 『坂道のアポロン』は、1966年の初夏、ピアノを弾く転校生が佐世保の高校でドラムを叩く同級生と出会い、ジャズに引きこまれていくという始まりの設定と、二人の人物紹介まで。三人の関係の行方や結末には触れません。『きみの色』は、佐世保の建物が劇中のバンドが演奏するステージのモデルになっていることだけ

『坂道のアポロン』の町、長崎県佐世保市へ。演奏の場面ばかり追ってしまうイロハと、ゆうべのライブ明けで眠そうなジン。長いアーケードの途中で、イロハのボールペンのインクが切れた。代わりに差し出されたのは、セットリストを書く太いマーカーだった。

适合这样的人
演奏の場面ばかり巻き戻して、登場人物の気持ちを置いてきてしまう人へ。きれいな線が引けないと、書くのをやめたくなる人にも。
发言的人
Iroha × Jin
圣地巡礼 長崎県佐世保市(佐世保駅、四ヶ町と三ヶ町のアーケード、亀山八幡宮、佐世保市民文化ホールを外から) 十一月の半ばの月曜、昼から夕方まで

昼の佐世保駅。ギターケースを背負ったジンが、あくびを噛み殺しながら改札を出てきた。ゆうべは、この町の小さなライブハウスで演奏だった。客席の後ろのほうには、イロハがいた。

Iroha

おはよう。ゆうべのジンのギター、赤錆の色がしてた。最後の曲だけ、少し青が混じってた。

Jin

……色で言われても分かんねえよ。……別に、悪い気はしねえけど。

二人が前に話したのは、『坂道のアポロン』のことだった。不良ものが好きなジンと、音にうるさいイロハの好みが、ちょうど重なる作品。今日は、その町を歩く。言い出したのはイロハで、ジンは「ツアーの次の日なら空いてる」とだけ返した。

Jin

一九六六年の初夏、横須賀から佐世保の高校に転校してくるやつがいる。親父が船乗りで、その仕事の都合だ。転校の初日、そいつはクラスが同じバンカラな男と出会う。で、ジャズにはまっていく。それが始まりだ。[1]

Iroha

佐世保もね、坂の多い町なんだって。長崎市ほどじゃないらしいけど。坂道の、町。[2]

駅を出て、二人は四ヶ町のアーケードに入った。その先の三ヶ町とつながって、直線距離では日本でいちばん長いアーケードになる。

イロハは歩きながら、ボールペンでノートに色の名前を書き並べていった。看板の色、床の色、天井から落ちてくる光の色。書くたびに足が止まる。三度目に止まったとき、ジンがイロハの鞄の紐を軽く引いて、端に寄せた。

Jin

真ん中で止まるな。後ろから来るやつがよける。店の前も空けとけ。……書くなら、柱の横だ。

Iroha

あ、ごめん。……ジン、そういうの、ちゃんとしてるんだね。

Jin

機材を運んでると、通路の真ん中で止まるのがいちばん迷惑だって体で覚える。それだけだ。

柱の横で、イロハは続きを書こうとした。ボールペンの先が、紙の上をかすれて滑った。もう一度。線は出なかった。鞄の中を探したが、替えのペンは見つからなかった。出てきたのは、逆向きに入っていた映画のパンフレットだけだった。

ジンはギターケースのポケットを開けて、太い黒のマーカーを一本出した。キャップにテープが巻いてある。

Jin

これしかねえ。セットリスト書くやつ。

イロハはマーカーを受け取って、しばらくペン先を見ていた。太い線は、細かい字には向かない。高校二年の秋、美術の時間に線がガタガタだと言われてから、イロハは長いあいだ、線を引くたびに消していた。ボールペンに替えたのは、消せない道具なら、引いた線を残すしかないからだった。

Iroha

……太いね。たぶん、字が揺れる。

Jin

揺れたら揺れたでいいだろ。読めりゃ十分だ。

イロハは、天井の光の色を書いた。字は大きく、少し右へ傾いて、線の端がにじんだ。イロハはそれを消さずに、次の行へ進んだ。

アーケードを抜けて、亀山八幡宮へ向かった。実写映画の『坂道のアポロン』は、この神社など佐世保市内でロケが行われた。

Iroha

映画のロケには、市内の学校も使われたんだって。でも、学校には行かないでおこう。名前も、ここでは言わない。

Jin

当たり前だ。毎日通ってるやつらの場所だろ。

Iroha

ここ、市内でいちばん大きな境内の神社で、七五三のお参りもあるみたい。十一月だから、家族で来てる人がいるかもしれない。写真を撮るなら、誰も入らない向きで。[4]

境内の隅で、二人は並んで立った。イロハはマーカーのキャップを指で回しながら、少し言いにくそうに切り出した。

Iroha

ジン。私、『坂道のアポロン』を観てるとき、演奏の場面ばっかり巻き戻してたの。ピアノとドラムが噛み合う瞬間の、指先と目線。でも、三人がそれぞれ何を考えてたのかは、正直あんまり覚えてない。

Jin

……アニメの音楽は菅野よう子だ。本人は、ジャズは前から好きじゃないって言ってたらしい。それでもこの作品のことは、あくまで人間を描いたものだって答えてる。[1]

Iroha

音を作った人が、そう言ったんだ。……私、いちばん大事なほうを聞き落としてたのかも。

Jin

聞き落とした分は、今から拾えばいい。……転校生は、ガキのころからピアノをやってて腕も立つ。ただ、弾いてきたのはクラシックだけだ。そいつが、あのバンカラに挑発されて、ジャズに手を出す。[1]

Jin

バンカラのほうはドラムだ。字は左手で書くのに、使ってるドラムセットは右利き用。[1]

Iroha

えっ、そうなの。気づかなかった。手の動きばっかり見てたのに。

Jin

俺は、そこがあいつだと思ってる。目の前にあるセットに、自分のほうを合わせて叩く。文句言わずに。……面倒見がいいのも、たぶん同じ根っこだ。自分より先に、目の前のやつに合わせちまう。

Iroha

置いてある楽器に合わせる人と、楽譜どおりにしか弾いたことのない人が、一緒に鳴らす。……音だけ聴いてたときより、二人の音の色が濃くなった気がする。

イロハはノートを開いて、マーカーで書いた。「バンカラ 左手で字、右の太鼓」。字はまた揺れた。ジンがそれを横から覗いて、鼻で笑った。

Jin

太鼓じゃねえ、ドラムだ。

Iroha

揺れた字には、太鼓のほうが似合うと思って。

夕方、二人は佐世保市民文化ホールの前に立った。もとは旧海軍の佐世保鎮守府の凱旋記念館で、大正十二年に建てられた。いまは市民が演劇や音楽を練習し、発表する場所になっている。

Iroha

劇中のバンドが演奏するステージ、あれのモデルがこの建物なの。私の好きな『きみの色』で。[6]

Iroha

色と音が、同じ画面で混ざる映画。初めて観たとき、ノートが一晩で一冊終わった。

Jin

練習する場所がモデルか。いいじゃねえか。本番より、練習の音のほうが正直だ。

中には入らなかった。今日がどんな日なのか、二人は知らなかったし、確かめもしなかった。建物の外で、イロハは目を閉じて、扉の向こうで誰かが音を合わせているところを想像した。こもった音の響きを、頭の中で鳴らした。

Iroha

ジン、このマーカー、明日まで借りてていい? ボールペン、帰りに買うけど、今日の分はこれで最後まで書きたい。

Jin

やる。予備はケースにもう一本ある。……字が揺れても、消すなよ。

Iroha

消さない。消しゴム、持ってないから。

翌日、イロハは新しいボールペンを買った。それでも、昨日の最後の行は書き直さなかった。マーカーの線は太く、ページの裏まで少しにじんでいた。「ジンの声:人のことを話すときだけ、少し低い。焚き火の色」。イロハはその下に、買ったばかりのボールペンで、小さく一行だけ足した。「消さない」。

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