昼の佐世保駅。ギターケースを背負ったジンが、あくびを噛み殺しながら改札を出てきた。ゆうべは、この町の小さなライブハウスで演奏だった。客席の後ろのほうには、イロハがいた。
おはよう。ゆうべのジンのギター、赤錆の色がしてた。最後の曲だけ、少し青が混じってた。
……色で言われても分かんねえよ。……別に、悪い気はしねえけど。
二人が前に話したのは、『坂道のアポロン』のことだった。不良ものが好きなジンと、音にうるさいイロハの好みが、ちょうど重なる作品。今日は、その町を歩く。言い出したのはイロハで、ジンは「ツアーの次の日なら空いてる」とだけ返した。
一九六六年の初夏、横須賀から佐世保の高校に転校してくるやつがいる。親父が船乗りで、その仕事の都合だ。転校の初日、そいつはクラスが同じバンカラな男と出会う。で、ジャズにはまっていく。それが始まりだ。[1]
佐世保もね、坂の多い町なんだって。長崎市ほどじゃないらしいけど。坂道の、町。[2]
駅を出て、二人は四ヶ町のアーケードに入った。その先の三ヶ町とつながって、直線距離では日本でいちばん長いアーケードになる。
イロハは歩きながら、ボールペンでノートに色の名前を書き並べていった。看板の色、床の色、天井から落ちてくる光の色。書くたびに足が止まる。三度目に止まったとき、ジンがイロハの鞄の紐を軽く引いて、端に寄せた。
真ん中で止まるな。後ろから来るやつがよける。店の前も空けとけ。……書くなら、柱の横だ。
あ、ごめん。……ジン、そういうの、ちゃんとしてるんだね。
機材を運んでると、通路の真ん中で止まるのがいちばん迷惑だって体で覚える。それだけだ。
柱の横で、イロハは続きを書こうとした。ボールペンの先が、紙の上をかすれて滑った。もう一度。線は出なかった。鞄の中を探したが、替えのペンは見つからなかった。出てきたのは、逆向きに入っていた映画のパンフレットだけだった。
ジンはギターケースのポケットを開けて、太い黒のマーカーを一本出した。キャップにテープが巻いてある。
これしかねえ。セットリスト書くやつ。
イロハはマーカーを受け取って、しばらくペン先を見ていた。太い線は、細かい字には向かない。高校二年の秋、美術の時間に線がガタガタだと言われてから、イロハは長いあいだ、線を引くたびに消していた。ボールペンに替えたのは、消せない道具なら、引いた線を残すしかないからだった。
……太いね。たぶん、字が揺れる。
揺れたら揺れたでいいだろ。読めりゃ十分だ。
イロハは、天井の光の色を書いた。字は大きく、少し右へ傾いて、線の端がにじんだ。イロハはそれを消さずに、次の行へ進んだ。
アーケードを抜けて、亀山八幡宮へ向かった。実写映画の『坂道のアポロン』は、この神社など佐世保市内でロケが行われた。
映画のロケには、市内の学校も使われたんだって。でも、学校には行かないでおこう。名前も、ここでは言わない。
当たり前だ。毎日通ってるやつらの場所だろ。
ここ、市内でいちばん大きな境内の神社で、七五三のお参りもあるみたい。十一月だから、家族で来てる人がいるかもしれない。写真を撮るなら、誰も入らない向きで。[4]
境内の隅で、二人は並んで立った。イロハはマーカーのキャップを指で回しながら、少し言いにくそうに切り出した。
ジン。私、『坂道のアポロン』を観てるとき、演奏の場面ばっかり巻き戻してたの。ピアノとドラムが噛み合う瞬間の、指先と目線。でも、三人がそれぞれ何を考えてたのかは、正直あんまり覚えてない。
……アニメの音楽は菅野よう子だ。本人は、ジャズは前から好きじゃないって言ってたらしい。それでもこの作品のことは、あくまで人間を描いたものだって答えてる。[1]
音を作った人が、そう言ったんだ。……私、いちばん大事なほうを聞き落としてたのかも。
聞き落とした分は、今から拾えばいい。……転校生は、ガキのころからピアノをやってて腕も立つ。ただ、弾いてきたのはクラシックだけだ。そいつが、あのバンカラに挑発されて、ジャズに手を出す。[1]
バンカラのほうはドラムだ。字は左手で書くのに、使ってるドラムセットは右利き用。[1]
えっ、そうなの。気づかなかった。手の動きばっかり見てたのに。
俺は、そこがあいつだと思ってる。目の前にあるセットに、自分のほうを合わせて叩く。文句言わずに。……面倒見がいいのも、たぶん同じ根っこだ。自分より先に、目の前のやつに合わせちまう。
置いてある楽器に合わせる人と、楽譜どおりにしか弾いたことのない人が、一緒に鳴らす。……音だけ聴いてたときより、二人の音の色が濃くなった気がする。
イロハはノートを開いて、マーカーで書いた。「バンカラ 左手で字、右の太鼓」。字はまた揺れた。ジンがそれを横から覗いて、鼻で笑った。
太鼓じゃねえ、ドラムだ。
揺れた字には、太鼓のほうが似合うと思って。
夕方、二人は佐世保市民文化ホールの前に立った。もとは旧海軍の佐世保鎮守府の凱旋記念館で、大正十二年に建てられた。いまは市民が演劇や音楽を練習し、発表する場所になっている。
色と音が、同じ画面で混ざる映画。初めて観たとき、ノートが一晩で一冊終わった。
練習する場所がモデルか。いいじゃねえか。本番より、練習の音のほうが正直だ。
中には入らなかった。今日がどんな日なのか、二人は知らなかったし、確かめもしなかった。建物の外で、イロハは目を閉じて、扉の向こうで誰かが音を合わせているところを想像した。こもった音の響きを、頭の中で鳴らした。
ジン、このマーカー、明日まで借りてていい? ボールペン、帰りに買うけど、今日の分はこれで最後まで書きたい。
やる。予備はケースにもう一本ある。……字が揺れても、消すなよ。
消さない。消しゴム、持ってないから。
翌日、イロハは新しいボールペンを買った。それでも、昨日の最後の行は書き直さなかった。マーカーの線は太く、ページの裏まで少しにじんでいた。「ジンの声:人のことを話すときだけ、少し低い。焚き火の色」。イロハはその下に、買ったばかりのボールペンで、小さく一行だけ足した。「消さない」。