朝九時半。京成佐倉駅の改札の前で、アカリは竹刀袋を背負っていなかった。かわりに、小さなリュックを一つ。隣ではハヤテが、駅の案内図を写真に撮っている。少し遅れて、背筋のまっすぐな女の人がヒールの低い靴で歩いてきた。
おはよう。アカリ、今日の準備は?
水と、おにぎり四つと、絆創膏。あと、読み返してきた。
よろしい。……そちらが、ハヤテくん?
は、はい。ハヤテです。今日は、よろしくお願いします。
いい立ち方。でも、あごをあと一センチ引くと、もっといいわよ。
ハヤテは言われたとおりにあごを引いて、そのまま固まった。アカリが横で「先生、会って十秒で直すのやめて」と小声で言った。
旅を言い出したのはアカリだった。ハヤテとは、同じ空手教室の、途中でやめた先輩と今の生徒という間柄だ。弱虫ペダルの話になったとき、二人とも好きだと分かって、「舞台の町に行こう」とアカリが決めた。昼間の旅でも、未成年だけで遠出はしないこと。それで、ダンス教室の先生のミサが付き添いを引き受けた。
主人公の坂道の高校、総北高校は、千葉県の佐倉市にある設定なの。校舎は小高い山の奥にあるんだって。[1]
佐倉市は、台地と、台地が削られてできた谷が入り組んでいる地形なんです。だから、坂が多いんだと思います。[2]
坂の多い町に、坂道という名前の子。分かりやすいわね。
坂道は、アニメもゲームも漫画も大好きで、秋葉原がとにかく好きな子なの。小学生のころから、秋葉原まで自転車で通ってた。[1]
ここから秋葉原まで、自転車で?
高校の裏の急な坂だって、鼻歌まじりに平気で登ってしまうんです。しかも、ママチャリで。[1]
鼻歌?
ミサの目が、急に真剣になった。アニメの話になるといつも口数の減る先生が、初めて身を乗り出した。
リズムがあるから登れるのよ、それ。踊りと同じ。息と足が同じ拍で動いてる。
先生、それ、作品のいちばん大事なところかも。
あら。じゃあ私、少しだけアニメが分かったのかしら。
駅を離れると、すぐに上り坂になった。アカリの足が速くなる。三歩目で、もう走っていた。
アカリ、歩道から出ない!
出てない!
坂の上で振り返ったアカリは、息ひとつ乱れていなかった。ハヤテは坂の途中で立ち止まり、手のひらを斜めにして角度を測るしぐさをした。
……カートなら、ここは二速です。
自転車の話してよ。
自転車は、エンジンが自分なので。……僕にはいちばん難しい乗り物です。
道路の向こうから、ロードバイクの一団が下りてきた。ハヤテはさっと二人の前に出て、腕で歩道の内側を示した。一団は速度を落として、三人の横を通りすぎていった。
坂の下りでは、自転車はすごく速くなります。道の写真を撮るときも、車道の側には立たないほうがいいです。
頼もしいわね。……アカリ、今の聞いた?
聞いた。……ハヤテくん、それで空手やめたの、もったいなかったね。
えっ。
いや、責めてない。人をかばう動きが、速かったから。……カートが続いてるなら、いいじゃん。
坂の途中に、学校の門が見えた。日曜の校庭では、部活の生徒たちの声がしていた。アカリはスマートフォンを出しかけて、ポケットに戻した。
学校は、撮らない。中の人の学校だもん。私の学校の前で知らない人がずっと撮ってたら、やだし。
そうね。敷地には入らない、生徒さんは写さない。舞台を訪ねるのは、そこに暮らしてる人の毎日にお邪魔することよ。
……サーキットのピットも、同じです。見せてもらう場所は、働いている人の場所なので。
昼前、三人は佐倉城址公園に着いた。城の跡に広がる公園で、木々のあいだを風が抜けていく。芝生の端のベンチで、アカリはリュックからおにぎりを四つ出した。
一人一個と、私がもう一個。
計算が合ってるのが、えらいわ。
それで、二人はこの作品のどこが好きなの。先生にも分かるように言って。
仲間とライバル。一人じゃ勝てないところに、ちゃんと仲間がいるの。でも、仲間に甘えてるだけでもない。
僕は……自転車の手入れの場面が出てくるたびに、止めて見てしまいます。走る前の時間のほうが、好きなのかもしれません。
走る前の時間。舞台の袖と同じね。幕が開く前に、全員の衣装の背中のファスナーを確かめて回るの、私。
先生、本番の日はいちばん早く来るもんね。
いちばん早く来て、いちばん前の席で見るの。息子の発表会でも、そうだったわ。
……僕の大会にも、いつも作業着のまま来てくれる人がいます。隣の家の人なんですけど。
あら。……その人、丁寧すぎる敬語で話す人じゃない?
え、はい。どうして分かったんですか。
なんとなく、よ。
ミサはそれ以上言わずに、水筒のお茶を一口飲んだ。アカリは二人の顔を見比べて首をかしげ、四つ目のおにぎりに手を伸ばした。
食べ終わると、ミサは立ち上がり、芝生の上で軽く足をそろえた。
さっきの鼻歌の話。二人とも、ちょっと立って。歩きながら、何か口ずさんでみて。
えっ、ここで、ですか。
人のいない端っこでね。大きな声じゃなくていいの。
アカリは迷わず、好きなアニメの主題歌を小さく口ずさみながら、芝生の端の緩い坂を上った。ハヤテは真っ赤になって、口を閉じたまま、ほとんど息だけで拍をとった。
ほら。ハヤテくん、さっきより足が軽い。息を止めて登ってたのよ、あなた。
……本当だ。カートでも、コーナーで息を止めてるって、言われたことがあります。
あなたなら、もっとできるわよ。息を止めない練習から。
先生、私には?
アカリは、速すぎ。坂の途中で一回、景色を見なさい。
……それ、ナギさんにも言われた。
午後の帰り道、アカリは坂を走らなかった。途中で一度だけ立ち止まり、振り返って、さっき歩いてきた町の屋根を見た。ハヤテは、その横で小さく息を吐きながら登った。ミサは二人の少し後ろを歩きながら、二人の足が同じ拍で動いていることに気づいて、何も言わずに口もとをゆるめた。
次は、自転車で来たい。もちろん、ちゃんと安全なとこで。
そのときは、ヘルメットの話から始めます。
で、準備は?
おにぎり、五つ。
坂の上で、三人はまた歩き出した。ハヤテは小さく息を吐きながら、つま先で拍をとっていた。アカリがそれに気づいて、同じ拍で足を鳴らした。ミサは二人の少し後ろを歩きながら、自分の背すじを、そっと一センチだけ伸ばした。