夕方だけ開く八百屋の前で、トマトを一つ買ったハルと、古本屋の紙袋を提げたナギが鉢合わせした。ハルが水曜の帰りに一駅ぶん歩くことを、ナギは知っている。今日はナギも、同じ方向だった。
ナギ! こっちで会うの、めずらしいね。
古本屋の帰り。……一冊だけ、買っちゃった。
何の本?
『ヨコハマ買い出し紀行』。漫画。……たぶん、ハルは知らないと思う。
知らない。……買い出しの話?
半分くらいは、そう。私、題名の『買い出し』で手に取ったの。食べものの話かなって。
違ったの?
主人公がね、ロボットの女の人なの。海の近くの岬で、ひとりで喫茶店をやってる。お店の持ち主は、旅に出たまま帰ってこない。[1]
ひとりで待ってる話? ちょっと寂しそう。
そう思うでしょ。でも、寂しそうに見えないの。お店のコーヒー豆が切れそうになると、ヨコハマの町までスクーターを走らせる。買い出しの旅。それが題名なの。[1]
スクーターで買い出し。……それ、冒険じゃん。
ハルは、なんでも冒険にするね。
だって、知らない町まで豆を買いに行くんでしょ? 冒険だよ。
ナギは少し笑って、紙袋の中の本の角を指でなぞった。
世界のほうは、ちょっと変わってるの。海がだんだん上がってきて、人も減ってる。人の時代が、ゆっくり夕方になっていくみたいな。[1]
え、それ、すごく重い話じゃない?
私もそう思って、最初は身構えた。重いのは、だめなほうだから。
でも、誰も嘆いてないの。みんな静かに、ふつうに暮らしてる。……そこが、なんか好き。[2]
世界が終わりかけてるのに、ふつうに暮らしてる……。
……それって強さだよね。どんなときでも前を向いて――
ハル。
……いまの、なし。
前を向いてるのとも、ちょっと違うの。お店を開けて、お客さんが来たら話して、来ない日は、ひとりで過ごす。それだけ。
それだけ、なのに読むの?
一話ずつ、誰かの毎日の一場面を描いてるの。だから私、一話読んだら一回本を閉じて、お茶を淹れる。[2]
一話だけ、ってナギがいつも言ってるやつだ。
ふふ。この漫画は、それがしやすい漫画。
最初に読んだのは日曜の夜。ホットミルクを温めて、ソファの端で一話だけ読んだの。マグを洗ってるあいだも、まだあのお店の中にいるみたいだった。音のしない漫画なのに、お湯の沸く音が聞こえたの。
マグを洗うまでが、一話なんだ。
うん。そこまでで一話。
僕、水曜だけ一駅歩いてるでしょ。あれ、ちょっと似てるかもしれない。急いで帰らない日を、週に一日だけ作ってる。
そっか。ハルの一駅ぶんが、この漫画の一話ぶんなのかも。
前はさ、机に『もっと早く』って書いた付箋を貼ってたんだ。いまは、何も書いてない付箋が一枚だけ。
白いままなの?
白いまま。……何か書きたくなるんだけど、書かないでおいてる。
その付箋、この漫画に似てる。説明しないで、置いてある。
ナギが、自分しか推してないって思うのはどうして?
周りで読んでる人に、会ったことがないの。古本屋の棚でも、この一冊だけが、ほかの漫画のあいだに挟まってた。
不思議なものも、ふつうに出てくるの。でも、それが何なのかは、最後まで説明されない。[1]
え、気にならない? 僕、絶対気になる。
気になる。でも、分からないまま置いておけるの。分からないままでいいよ、って言われてる気がする。
分からないままでいい、か。……僕、それ、いちばん苦手かも。
知ってる。
僕なら、たぶん持ち主を探しに行っちゃう。スクーターで。
ハルはそうだと思う。……それも、ちゃんとした読み方だよ。
待つのも冒険、って言われたら、ちょっと分かる気がするけど。
言ってないよ、そんなこと。
……うん。言ってなかった。
主人公は、お店で月琴っていう楽器を弾いたり、魚の形の小物を彫ったりしてる。お客さんが来ない日も、手は止まってないの。[2]
楽器と、彫りもの。……自分の時間を、ちゃんと持ってる人だね。
人っていうか、作中だと『ロボットの人』って呼ばれてるけど。[1]
ロボットの人。いい呼び方だね。
近所にはガソリンスタンドのおじさんがいて、お店の常連さん。[2]
それと、配達の仕事をしてる、もう一人のロボットの人が出てくるの。持ち主から届いたカメラを運んできて、それで二人が知り合う。[2]
友だちができるんだ!
友だちになる。私、その二人がお店で話してるだけのページが好き。何も起きないのに、ずっと見ていられる。
常連さん、いいな。……ねえ、誰かのために何か用意する場面ってある? 僕、そういうのに弱くて。
ある。……でも、言わない。ハルが自分で見つけたほうがいいと思う。
気になる!
長いね! 全部読むのに、何日かかる?
アニメにはなってないの?
短いアニメが、二回作られてる。私はまだ、漫画のほうしか知らない。[2]
……ねえ、その一冊、読み終わったら貸してくれる?
いいよ。でも、一日一話ね。
一日一話。……僕にできるかな。
できなくてもいいよ。止まったら、そこで一回、お茶を淹れて。
一駅ぶんの道が終わって、駅の明かりが見えてきた。ハルはトマトの袋を持ち直して、何か言いかけて、やめた。
駅、着いちゃった。……じゃあ私、帰ったら一話だけ読んで寝る。
ハルは手を振って、トマトの袋を揺らしながら改札へ向かった。ナギは紙袋から本を出して、表紙を一度だけ眺めて、またしまった。