午前二時十分。客のいない店内で、ルカはレジの内側から、揚げ物のケースの値札を端から一枚ずつ、指でまっすぐに直していた。短期の仕事で、この店の夜勤に入るのは三日目になる。
自動ドアが開いた。パジャマの上にパーカーを羽織った女の人が入ってくる。パジャマの柄は、パンをくわえたサメだった。
いらっしゃいませ。……あ。
……あ。
ミコは一瞬、自動ドアのほうへ半歩下がった。知り合いがレジにいるのは、知らない人がいるより、ある意味で難しい。
ミコさん。このようなお時間に、お散歩でございますか。
散歩じゃない。のり弁。
ミコは店内をゆっくり一周してから、カゴに、プリンを二つ、炭酸水を一本、のり弁を一つ入れて、レジに置いた。
お預かりいたします。のり弁、でございますね。温めは、いかがなさいますか。
……うん。
「うん」というのは、温めるほう、ということでよろしいでしょうか。それとも、お気持ちとしては温めたいけれども、お持ち帰りの時間を考えるとそのままのほうが、という意味合いの——
温めて。
かしこまりました。
電子レンジが回りはじめる。そのあいだに、ルカはプリンのバーコードを読もうとして、三回続けて失敗した。
角度。
はい?
バーコード、ななめ。
……恐れ入ります。こちらはまだ三日目でして、不慣れで申し訳ございません。
三日目でそれなら、上出来でしょ。
恐れ入ります。それから、ポイントカードは、お持ちでいらっしゃいますか。
ミコは止まった。財布の中に、カードは三枚ある。どれがこの店のものか、急に分からなくなった。
……ない。たぶん、ない。あるかもしれないけど、ないことにする。
かしこまりました。ない、ということで。
そこは、流してくれるんだ。
私も、受付ではよく固まりますので。
袋は、ご利用になりますか。有料でございまして、大きさが二種類、それから——
いらない。つまり、ポケットに入れて帰るってこと。
プリン二つを、ポケットに。
入る。パジャマのポケット、深いから。
……深いのですね。
ルカは、口もとを少しだけ引き締めた。
それ、何。エプロンのポケット。
休憩時間に読もうと思っております、はたらく魔王さま!です。
知ってる。魔王がバイトするやつ。
はい。異世界の魔王サタンが、日本で真奥貞夫と名を変えて、ファーストフードのお店で、アルバイトから正社員を目指して働くお話です。[1]
住まいは、笹塚の、六畳一間でお風呂のないアパートでございまして。[1]
そこまで覚えてんの。
世界を征服しようとしていた方が、六畳一間で暮らしを立て直していく。私は、そこに、妙に勇気をいただきまして。
家の広さで勇気出るの、だいぶ疲れてるよ。
……はい。疲れております。
あんたの仕事も、魔王みたいなもんでしょ。短いのを、つないで。
はい。配達の日もあれば、倉庫の日も、こうした夜の日もございます。
それ、万事屋じゃん。
よろずや……?
銀魂。坂田銀時ってのが江戸で万事屋をやってて、どんな依頼にも首を突っ込むの。[2]
やる気なさそうに見えて、侍の魂だけは手放してない。そこなんだよ。
そこから先は、早かった。ミコは低い声のまま、急に早口になった。ふだんはだらけている主人公が、いざというときだけ筋を通すのが好きなこと。笑いながら観ていたはずなのに、いつのまにか笑えなくなっている瞬間が好きなこと。その切り替わりの前の、ほんの一拍の静けさが、いちばん好きなこと。ルカは、そのあいだに揚げ物のケースのトングを一本、きれいに拭き終えていた。
……いまの、長かった?
いいえ。たいへん、よく分かりました。ミコさんは、ふざけたまま真剣になる方のお話が、お好きなのですね。
……一行で言わないで。照れる。
侍の魂……。
あんたの場合は、たぶん、値札をまっすぐにする魂。
ルカは、揚げ物のケースの値札を振り返った。全部、まっすぐだった。
……これは、魂というほどのものでは。
魂だよ。三日目でそれは、魂。
ミコさんは、いつもこのお時間に。
昼は、人が多いから。夜なら、レジの前で固まっても、誰も見てない。
……私が、拝見しておりますが。
あんたは数に入らない。……いい意味で。
いい意味で、数に入らない。
ルカはその言葉を、値札と同じくらいていねいに、頭の中でまっすぐに置き直しているようだった。
そのとき、自動ドアが開いて、作業着の男の人が入ってきた。缶コーヒーを一本、レジの台に音を立てて置く。
これ。早くして。
いらっしゃいませ。恐れ入ります、ただいま、こちらのお客様の——
一本だけなんだから先にやってよ。遅いんだよ、夜のバイトは。
ミコの肩が、こわばった。大きな声の前では、ミコは言い返せない。のり弁を温めるレンジの音だけが、やけに大きく聞こえた。
……どうぞ。先。
ミコは半歩横にずれた。ルカは深く頭を下げて、缶コーヒーの会計をした。今度は、バーコードは一回で読めた。男の人は釣り銭を受け取ると、何も言わずに出ていった。
自動ドアが閉まると、ミコは黙ってスマートフォンを取り出し、何かを打ちはじめた。打ち終わると、画面をルカのほうへ向けた。
そこには、こう書いてあった。「遅いのは悪くない。怒鳴るほうが悪い。順番をゆずったのは、わたしが弱かったから。ごめん」
……ミコさんが謝ることは、何も。
口で言えなかったから、書いた。それだけ。
私も、言い返せませんでした。……言い分を聞いていただけないのには、少し、慣れておりますので。
ミコは何か冗談を言いかけた顔をして、やめた。
……慣れなくていい。
はい。
聞く人がいなかったんなら、それは、聞かなかったほうが悪い。あんたじゃなくて。
……はい。
レンジが鳴った。のり弁が温まっていた。
……ねえ。ちゃんと寝てる?
はい。夜勤のあとは、朝のうちに眠ります。
どこで。
個室のあるところで、と申しますか。毛布を一枚、きれいにたたんでから眠ることにしております。たたむと、そこが少しだけ、自分の寝床らしくなりますので。
ミコは、それ以上は聞かなかった。聞かないほうがいいことの線を、ミコはいつも、誰よりも早く見つける。
……たたむの、えらい。わたし、毛布、たたんだことない。
それは、それで、よく眠れそうです。
ルカは、のり弁に割りばしを添えてミコに渡し、プリンを二つ、その横に並べた。
一個、あげる。休憩で食べて。
いえ、そのようなお気遣いは……お客様からいただくのはいかがなものかと、それに私は夜中に甘いものをいただきますと、翌日の配達の足取りが——
つまり、もらうってことね。
……はい。いただきます。
では、こちらのプリンは、温めますか。
プリンは温めない。
……失礼いたしました。口が、勝手に。
あと、プリンをポケットに入れる話のとき、笑いそうになってたでしょ。
なっておりません。
笑えば?
……業務中ですので。
ルカはそう言って、くるりと背を向けた。背筋をぴんと伸ばしたまま、レジ横の募金箱の向きを、意味もなく直している。肩が、ほんの少し震えていた。
……背中で笑うの、器用だね。
笑っておりません。
ミコはのり弁を片手に、プリンを一つパジャマのポケットに入れて、自動ドアの前で立ち止まった。
おつかれ。
いつもより、ほんの少しだけ大きな声だった。自動ドアが閉まる。午前二時四十一分。揚げ物のケースの値札は、全部まっすぐなままだった。
三時。休憩に入ったルカは、バックヤードの折りたたみ椅子で、もらったプリンのふたを開けた。エプロンのポケットから文庫を出して、魔王がアルバイトに向かう場面を、もう一度読んだ。プリンは、ていねいに一口ずつ食べた。小さなスプーンを洗って、ふたを四つに折って捨ててから、ルカはレジに戻った。値札が一枚だけ、ほんの少し傾いていた。直しながら、ルカはほんの少しだけ、口もとをゆるめた。