昼の皿が片づいた居間で、中学生の次女が絵本を三冊、畳に並べていた。来週の職場体験で、保育園の子たちに一冊読むことになったのだという。縁側では白い猫が一匹、日なたで丸くなっている。
練習するから聞いてて。泣いたら笑うからね。
誰が泣くんだよ。
父ちゃん。
小学生の末っ子が、漫画から顔も上げずに答えた。次女は母のほうを向いた。
母ちゃんは? 読み聞かせで泣いたこと、ある?
あらあら。……あるわよ。泣いたというより、読んでいるうちに、慰められていたのが私のほうだったことが。
酒井駒子作。偕成社から1999年11月に刊行
ゲンさんが海の上だったころ、夜泣きするお姉ちゃんを抱いて、台所の明かりの下で読んでいたの。読み終わるころには、お姉ちゃんより先に、私のほうが落ち着いていたのよ。
ゲンは湯呑みを持ったまま、しばらく黙っていた。
……その台所、俺は知らねぇんだよな。
知らなくていいんですよ。明かりは、ちゃんとついていましたから。
いい話にしないで。練習できなくなる。父ちゃんは?
俺は恐竜のやつだ。アンキロサウルスの赤ん坊の前にティラノサウルスが出てきて、「おまえうまそうだな」って近づいてくんだよ。[2]
『おまえ うまそうだな』宮西達也作・絵。ポプラ社から2003年3月に刊行
こいつが恐竜の図鑑ばっかり見てた年に、図書館で一緒に借りてな。読んでたら、俺のほうが先に……
泣いた。おれ、背中さすった。
先に言うなよ!
父ちゃんがいつも先に言うから、おれも先に言った。
どこで泣いたの?
ゲンの口が開きかけた。台所のほうから、静かな声がした。
……ゲンさん。
言わねぇよ。……言わねぇ。保育園で読むなら、自分で見つけろ。
縁側の猫が、いつのまにか背筋を伸ばして座り直していた。
にゃ。
ゲンは猫から目を離して、次女のほうへ向き直った。
お前にも読んだんだぞ。ぐるんぱのようちえん。ひとりぼっちの大きなぞうが、あっちこっちの仕事場で一生けんめい働くのに、作るもんが大きすぎて失敗ばっかりでな。[3]
西内ミナミ作、堀内誠一絵。福音館書店の初版は1966年12月
陸に上がって何年か、網の繕いも港の段取りも空回りしてたころだ。読みながら鼻すすってたら、お前、けらけら笑ってた。
覚えてない。
だろうな。笑われて、こっちは助かったんだ。
それなら、あなたが覚えていないもう一冊も。あさえとちいさいいもうと。お母さんの留守に、妹と家の前で遊んでいたあさえが、顔を上げたら妹がいなくなっている、というお話よ。[4]
筒井頼子作、林明子絵。福音館書店の初版は1982年4月
お姉ちゃんが、あなたの手を引いて公園へ行くようになった年に、二人に読んだの。読み終わったら、お姉ちゃんが黙って、あなたの手を握り直していて。胸がつまって、次の本を開けなかったのよ。
次女は何も言わずに、自分の手のひらを見た。それから、並べた三冊のうち一冊を取った。
じゃあ、読むよ。保育園の子だと思って聞いて。
最初の何ページかは、よく通る声だった。あるページで、その声が一度だけ止まった。次女は咳払いをして、何もなかった顔で続けた。
いま、止まった。
止まってない。
泣けるじゃねぇか……!
父ちゃんが泣いてどうすんの。笑うって言ったよね。
次女は笑わなかった。かわりに、止まったページの角を、指先で小さく折りかけて、やめた。図書館の本だった。
どこで止まったかは、保育園の子たちにも内緒にしておいてね。さあ、もう一回。今度は、お母さんも保育園の子になります。
シズカは座布団の上で背筋を伸ばし、小さな子のように両手を膝に置いた。縁側の猫も、同じ向きに座った。