土曜の十一時すぎ。店先の箱に値札を貼っていたイツキの前に、図書館の袋を抱えたリリィがやってきた。後ろに、竹刀袋を背負った女の子が一人ついている。
イツキさん、こんにちは。約束どおり持ってきました。こっちは、ダンス教室で一緒のアカリです。
アカリです。……古本屋って、初めて入りました。
いらっしゃいませ。竹刀袋、そこの柱に立てかけてもらって大丈夫です。
リリィが次の「持ち寄る会」のお題に決めかけているのは、子どものころの一冊だった。本番の前に三人で試したい、と言いだしたのは先週のこと。持ってくるのは一人一冊。話すのは、中身より、その本を読んだ日のこと。
じゃあ、私から。今朝、図書館で借りてきました。三びきのやぎのがらがらどん。
ノルウェーの昔話で、三びきとも名前が「がらがらどん」なんです。橋の向こうの山で草を食べようとして、渡る途中で、谷に住むトロルに出くわすんです。[1]
マーシャ・ブラウン絵、せたていじ訳。福音館書店の初版は1965年7月
祖母が図書館で読んでくれた、たぶん最初の一冊です。橋の場面になると祖母の声が低くなって、それが怖くて。私、祖母の袖をつかんだまま最後まで聞きました。
怖いのに、最後まで聞いたんだ。
袖をつかんでたら、聞けたの。……ねえ、ここ。祖母の声が変わるページ。
で、トロルってどうなるの?
そこは、あらすじは言わないでおきます。僕もさっき店の在庫で読んだばっかりで。これ、僕には新刊でした。
えー。じゃあ自分で読むしかないじゃん。
うん。会でも、そこは誰も言わないことにする。
中1のアスカが体を動かす係で、同い年のいとこがパソコンでナビする係。で、盗むのは悪いことしてる人からだけ。[2]
小三の冬に勝手に読んで、読むたびに居間で前転したくなって、母に、家の中はやめてって止められた。
アカリは本をカウンターに置き、背が鳴るほど大きく開いた。値札を貼っていたイツキの手が止まった。
それ、次に読む人がいるんで。
次に読むの、兄貴だけど。
じゃあ、お兄さんのためにも、です。
……ふうん。分かった。勝手に持ってきたのも、帰ったら言う。
アカリは表紙をそっと閉じて、両手で持ち直した。
イツキさんの一冊は?
僕のは、これです。学習まんがの、野口英世。
小学館版 学習まんが人物館の一冊
紹介には、左手のやけどの手術がきっかけで医学の道を選んで、大学に行かずに独学でお医者さんになった人、って書いてあります。それから、アメリカへ渡るんですね。[3]
小学生のころ、雨の日に、この店の帳場の隅で読んだんです。店先の箱から一冊抜いて。読み終えて祖父に返しに行ったら、黙って裏の値札をはがして、僕の膝に戻してくれて。
値札はがしたら、もう売れないじゃん。
そうなんです。それで、店の本じゃなくなりました。
裏表紙には、四角い跡が薄く残っていた。リリィは指で縁をなぞりかけて、やめた。
ノートに書きます。三人とも、中身より先に、読んでくれた人と、止めた人の話をしてた。
止めた人って、うちの母?
と、イツキさんのおじいさん。値札をはがした人。
奥の帳場で、祖父が老眼鏡を額に上げた。イツキは祖父の右側に回って、少し大きな声で言った。
じいちゃん、昔の野口英世の話。覚えてる?
祖父は伝票を一枚めくってから、顔を上げずに言った。「雨だったな」
覚えてんじゃん。
お知らせの文、決めました。「子どものころの一冊と、それを読んだ日のことを持ってきてください」。……あ、もう行かないと。祖母の家に、一時までに着く約束なんです。
兄貴に、なんて言って返そう。
前転したくなったところだけ、言えばいいと思います。
二人が出ていったあと、イツキは学習まんがを帳場の引き出しにしまった。値札の跡のある面を、下にして。