「しおりのある部屋」で、ガクがタカシに尋ねました。作品に助けられたことって、ありますか。いつもは歴史と組織の話になると止まらない二人ですが、今日は少しゆっくり話しました。
台所のテーブルで朝を待った
タカシさんにも、作品に助けてもらった時期ってありますか。いつも若い人の相談を受けている側なので、ちょっと想像がつかなくて。
……あります。少し前のことです。大切な人を失って、そのあと家族とも離れて暮らすようになった時期がありました。会社には毎日行っていましたし、仕事もしていました。ただ、夜になると眠れなかった。
眠れない夜は、どこで過ごしていたんですか。
台所のテーブルです。寝室に行くと、かえって目がさえてしまうので。夜中の2時ごろ、テーブルに湯のみを一つ置いて、部屋の明かりは流しの上の小さな電灯だけ。広い家に一人でいると、冷蔵庫の音がやけに大きく聞こえるんです。
そのころは、顔を出さない配信者の方の声をよく聞いていました。何を話していたかは、正直あまり覚えていません。誰かが同じ夜に起きて話している、その声があるだけで、朝まで座っていられた。何度もそうやって朝を迎えました。いまでも感謝しています。
声があるだけで、というのは分かる気がします。
青い海の絵を押した夜
ある夜、配信が終わって部屋が静かになったあと、なんとなく動画配信の画面を眺めていたんです。そこに、青い海の絵がありました。戦記ものでも歴史ものでもない。いつもの私なら選ばない作品です。でもその夜は、何も考えたくなかった。それで押してみたのが、『凪のあすから』の第1話でした。
『凪のあすから』について、P.A.WORKSの作品紹介はこんな世界を描いています。人間はもともと、みな海の住人でした。その海を捨てたのは、陸を夢見た人たちです。こうして海の暮らしと陸の暮らしが分かれました。互いの考え方はかみ合わなくても、細い行き来だけは途切れずに残り、そのまま時が流れた、と紹介されています。事实[1]
海と陸に分かれた人たち、ですか。住む場所が分かれると、決まりごとも考え方も変わっていく。……あ、すみません、つい制度の話にしそうになりました。
私もです。分かれた共同体の話になると、昔の国境の町の話をしたくなる。……また歴史の話にしてしまうところでしたね。今日はやめておきましょう。
置いていかれる側に座った
その夜、作品のどこが効いたんでしょう。
私は長いあいだ、置いていく側の人間でした。花の市場が開く前に家を出て、家族との約束の日にも現場へ向かった。待っている人がいることは分かっていて、それでも、待ってもらえると思っていたんです。
展開には触れませんが、この作品では、置いていかれる側の気持ちがとても静かに描かれている。台所でそれを見ていて、ああ、いま自分はこちら側に座っているんだ、と思いました。置いていかれる側の夜は、こんなに長いのか、と。解读
つらい見方ですね。
つらかったです。でも、不思議と責められている感じはしなかった。登場人物たちは、自分の気持ちを急いで言葉にしないんです。揺れたまま、言えないまま、それでも次の日を過ごしている。私はずっと、気持ちを言葉にする前に、歴史のたとえや仕事の段取りで片づけてきました。言えないまま座っていてもいいのだと、あの子たちに教わった気がします。解读
食堂の閉店後みたいですね。片づけ終わったあとの静かな店で、店主が椅子に座ってぼんやりしている時間。あれは何もしていない時間じゃなくて、一日をちゃんと終わらせるための時間なんだと思います。解读
……いいたとえです。私のたとえより、ずっと分かりやすい。
一晩に一話だけという約束
それから、毎晩見たんですか。
一晩に一話だけ、と決めました。続きが気になっても、二話目は押さない。自分と約束したんです。そのころの私は、人との約束の順番を何度も間違えた人間でした。だから、絶対に守れる小さな約束が欲しかったのかもしれません。今夜一話見る。明日の夜も一話見る。それだけの約束を、毎晩守りました。
見終わると、エンディングの曲が流れ終わるまで座っていて、それから湯のみを洗う。空が白くなるころには、会社の温室に行って、花に水をやりました。眠れたわけではありません。でも、夜が少しだけ区切られるようになった。それが大きかったんです。
作品が何かを解決してくれた、というより、夜に区切りをくれた。解读
それに、一話ずつだと、次の夜が少しだけ楽しみになるんです。明日はあの子たちがどうしているだろう、と考えながら湯のみを洗う。誰かを待つ側になっていた私が、今度は物語の続きを待つ側になった。待つことがつらいだけではないと、あのとき初めて思えました。
立ち上がらせてくれた、というほど大げさなものではありません。朝まで座っていられるようにしてくれた。それで十分でした。
ほどよい距離で聞くこと
あの配信者の方の声は、いまも聞いているんですか。
ときどきです。あのころは、救われたぶん何かを返さなければと、少し力が入りすぎていました。でも、救ってもらったことと、その人に近づいていいことは、別のことです。いまは少し距離を置いて、感謝だけを持っているようにしています。
受け取ったものの返し方って、難しいですね。僕も、助けてもらった作品に何を返せばいいのか、ずっと分からないままです。
私は、別の誰かの夜に回すことにしました。若い人の相談を受けるとき、最近は資金や助言の前に、まず「昨日は眠れましたか」と聞くようにしています。答えが「あまり」なら、その日は難しい話をしません。
いまの小さな習慣
いまも、何か続けていることはありますか。
毎朝、花に水をやる前に、その日守る約束を一つだけメモに書きます。作業着の胸ポケットに入れている、普通のメモ帳とペンで。大きな約束ではありません。誰かに電話を一本かける、とか、夕方は早めに帰る、とか。一つだけなら、順番を間違えずにすみますから。
一つだけ、というのがいいですね。
眠れない夜が続いているなら、一話だけと決めて何かを見るのも、一つの過ごし方かもしれません。全部見なくていいし、何かを分かろうとしなくてもいい。今夜一話、と自分と約束して、それを守る。それだけでも、夜は少しだけ区切られます。解读
持ち帰るしおり:眠れない夜は一話だけと決めて、その小さな約束を守ってみる。守れる約束が一つあると、朝まで座っていられることがあります。