五本目は『平家物語』じゃ。6選のなかで、いちばん古い。小説の棚に入れてええもんか迷うたが、物語であることに変わりはない。俺はこれを、朝の稽古の前に声に出して読むことがある。誰がどう散ったかは書かん。書くのは、冒頭の数行と、それが俺に何をしてくれるかじゃ。
朝の道場で読む
毎朝、俺は誰より早く道場に来る。まだ暗いうちに戸を開けて、床を拭いて、神棚に頭を下げる。それから、気が向いた日は文庫を開いて、冒頭の一節を声に出して読む。誰も聞いとらん道場に、自分の声だけが響く。それがなんとも気持ちがええんじゃ。喜好
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」。作品中的观察
……それ、毎朝やってるの? なんで声に出すの。黙って読めばいいじゃん。
ははは、ええ質問じゃ。理由はふたつある。ひとつは、これは目で読むより、耳で聞くための話じゃからじゃ。
角川ソフィア文庫の『平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』の紹介を借りると、こうなる。『平家物語』は一大戦記じゃ。時は12世紀末、源平の争乱。平家一門はその波に翻弄され、栄えては衰える。その一門の愛と死までを、叙事詩として描き上げた。琵琶法師が語ってきたこの物語は、のちの世の文学にも芸術にも、大きな影響を与えた、と。事实[1]
昔の人は、これを琵琶の音にのせて聞いたんじゃ。じゃから、声に出すと文の調子がよう分かる。息継ぎの場所が、ちゃんと文の中に用意してある。解读
ふうん。……で、もうひとつは?
もうひとつはな、自分に言い聞かせるためじゃ。勝った日ほど、驕るなよ、と。礼が先で勝ち負けがあと、というのと同じことじゃ。空手でも、お前さんの剣道でもな。礼は相手より先に自分の心を整える技。これも同じで、稽古の前に自分の心を整えとるんじゃ。解读
……説明してくれるなら、まあ、分かる。
好きな理由1:勝った者にも風が吹く
冒頭の一節で、もう話の骨が全部言われとる。盛んな者も必ず衰える。驕る者も長くは続かん。強い者もいずれは滅びる。それを、最初に言い切ってから物語が始まるんじゃ。結末を先に言うとるようなもんじゃが、それでも読ませる。いや、それだからこそ読ませる。解读
勧善懲悪が好きな俺が、なんでこれを6選に入れたか。この話は、善い者が勝って悪い者が負ける、という話ではないからじゃ。勝った者にも、負けた者にも、同じ風が吹く。それを知っとると、勝ったときに相手を踏みつけにせんで済む。勝負に生きる者には、勧善懲悪と同じくらい、この風の話が要るんじゃ。解读
好きな理由2:負けた側の名前が残る
この物語は、負けていく側の人たちのことを、実に丁寧に語る。名のある武将だけじゃない。若い者、女たち、名もない者たちの一場面一場面に、ちゃんと言葉が割いてある。読んどると、勝ち負けの帳簿には載らん人たちの顔が、ひとつずつ浮かんでくる。作品中的观察
道場で試合をすれば、勝つ者と負ける者が出る。負けた子の顔を、俺は必ず見るようにしとる。勝った子は放っておいても胸を張る。負けた子が次の稽古に来るかどうかは、その日の帰り道で決まる。『平家物語』を読んでおると、負けた側の顔を見落とさんようになるんじゃ。喜好
好きな理由3:耳に残る文の調子
古い言葉なのに、声に出すと不思議と口になじむ。リズムがあるんじゃ。七つと五つ、その繰り返しじゃ。型の稽古で、突きと受けが決まった拍子で続くのと似とる。何十年と読んどると、もう文庫を開かんでも口が勝手に動く。体が覚えた型と同じじゃな。解读
毎朝読んどると、日によって声の出方が違う。前の晩に寝不足なら声がかすれる。稽古で何か気にかかることがあれば、どこかで息が詰まる。じゃから冒頭の一節は、俺にとってはその日の体と心の具合を測る物差しにもなっとる。声がまっすぐ出た朝は、弟子にもまっすぐ物が言える。喜好
古文で挫折した人へ
学校の古文で嫌になった、という人は多かろう。文法なんぞ気にせんでええ。俺も文法は分からん。紹介文にもあるが、ふりがな付きで、話の流れをつかみやすくした文庫もある。まずは冒頭の数行だけ、声に出して読んでみなされ。意味は分からんでも、調子が体に入ってくれば、それで半分は読めたも同然じゃ。
あとは、好きな場面をひとつ見つけて、そこだけ何度も読むのがええ。全部を読もうとせんでええ。俺も、毎朝読むのは冒頭だけじゃ。それでも何十年も、飽きずに付き合えとる。喜好
ほかの5本とのつながり
『独眼竜政宗』で大将の座り方を習い、『レンズマン』で正義が策を練る話に胸を熱くした。そのどちらにも、この平家の風が吹いとる。勝った大将も、いずれは風の前の塵じゃ。『昭和元禄落語心中』の芸の話にも、同じ風を感じた。だから俺は、6選のなかでこれを、いちばん自分を叱ってくれる本として置いとるんじゃ。喜好
勝った朝ほど、冒頭の一節を声に出してみなされ。礼と同じで、自分の心を先に整える技じゃ。