「しおりのある部屋」で、ナギがガクに尋ねました。作品に助けられたことって、ある? いつもは制度や文明の話を長々としてしまうガクが、今日は少し照れながら、高校生のころの話をしてくれました。
消しゴムのかすだけが増えた
ガクにも、作品に助けてもらったこと、ある? いつも作品を研究してる側の人っていう感じだから、ちょっと想像がつかなくて。
あるよ。高校2年の秋。進路希望調査の紙が配られて、僕だけ、何週間も出せなかったんだ。
何週間も。
うん。夜の11時ごろ、自分の部屋の机にその紙を置いて、ずっと眺めてた。将来の夢、志望する進路。何か書いては消して、朝になると消しゴムのかすだけが増えてる。周りの友だちは、なりたい職業をはっきり書くか、行ける学校を現実的に書くか、どっちかに見えた。僕はどっちも書けなかった。
やりたいことが、なかったの?
逆かな。世界がどういう仕組みで動いてるのかを知りたい、っていう気持ちはずっとあった。子どものころから地図ばかり描いてたしね。でも、それは職業の名前じゃない。名前のつかない興味は「夢」の欄に書いちゃいけない気がしてた。かといって、興味を捨てて現実的なことを書くのも、自分を裏切るみたいで嫌だった。
皿洗いの帰り道
そのころ、週末だけ近所の食堂で皿洗いのアルバイトをしてたんだ。
あ、ガクがよく食堂でたとえ話をするの、そこから?
ばれたか。たぶんそう。でも当時は、あの時間がすごく嫌だったんだ。夢の欄は白紙なのに、手は油の浮いたお皿を洗ってる。これは将来と何の関係もない時間だ、って思いながら洗ってた。
ある土曜日の夜9時すぎ、片づけを終えて駅前の本屋に寄った。目的もなく漫画の棚を眺めてたら、宇宙が描かれた表紙が目に入って。宇宙の話なら、少しは気が晴れるかなと思って買ったのが、『プラネテス』の1巻だった。
『プラネテス』は幸村誠さんの漫画です。舞台は2070年代で、講談社の紹介文によれば、人間の住む範囲がやっと月面まで届いた時代の物語です。事实[1]
宇宙飛行士がゴミを拾っていた
帰りのバスで読みはじめて、最初の数ページで驚いた。宇宙飛行士の話だと思ってたら、主人公の仕事は宇宙のゴミ拾いなんだ。
講談社の第1巻の紹介を読むと、主人公のハチマキはこんな青年です。仕事はデブリ(宇宙廃棄物)を集める船の乗組員で、決して花のある職ではない。胸には大きな夢がある。それでも、さえない現実と、ぐらつく自分自身に勝てずにいる。事实[2]
宇宙まで行ってるのに、地味な仕事なんだ。
そう。それで、僕がいちばん救われたのはそこだった。大きな夢を持っている人が、毎日は地味な仕事をしている。愚痴も言うし、給料の話もする。でも同じ口で、まっすぐ夢の話もする。夢と仕事が、一人の人の中にちゃんと同居してたんだ。解读
読んでて、ああ、白紙の欄に職業の名前が書けなくても、僕が今日お皿を洗ったことは消えないんだな、って思った。夢の欄と、今日の作業の欄は、別々じゃなくていいのかもしれないって。
お皿を洗ってた時間が、急に意味を持った感じ?
意味を持った、というより、意味がなくてもいいと思えた、のほうが近いかな。主人公だって、ゴミを拾うことに毎回意味を感じてるわけじゃない。それでも明日もまた仕事に行く。その姿が、僕にはすごく正直に見えたんだ。解读
大きなコマと小さなコマ
あと、絵の見せ方にもやられた。ページいっぱいに宇宙が広がる大きな絵のすぐあとに、狭い船内で誰かがぼそっとつぶやく小さなコマが来る。世界の大きさと、そこで働く一人の小ささを、ページをめくるたびに行ったり来たりさせられる。解读
そうそう、デブリっていうのは軌道上をものすごい速さで回ってて、ネジ一本でも当たると危ないんだけど、その速さっていうのが……
ガク、それ、知らなくても読める?
……読める。ごめん、またやった。高校生の僕も、軌道の計算なんて一つもわかってなかったのにね。わからないまま、宇宙と船内を行き来するのが楽しかったんだ。
ふふ。私はね、船の中の場面のほうが気になるかも。休憩のときに何を飲んでるのかとか。喜好
それ、ナギらしい。実は僕も、宇宙の大きな絵より、休憩の場面のほうをよく覚えてる。仕事の合間に交わす、どうでもいいような会話。そこにその人の暮らしが出る。いま思えば、「英雄がいない場所の暮らし」を見たいっていう僕の好みは、あのバスの中で始まったのかもしれない。
次の週末のアルバイト、何か変わった?
変わった。相変わらずお皿は洗ってたんだけど、周りがよく見えるようになったんだ。朝いちばんに野菜を届けに来る人がいて、仕込みをする人がいて、注文を通す人がいる。お皿洗いはその流れのいちばん最後で、ここが止まると次のお客さんにお皿が出ない。小さな食堂だけど、ちゃんと一つの仕組みになってた。
宇宙のゴミ拾いと、食堂のお皿洗い。
そう、どっちも誰かがやらないと全体が回らない仕事。僕が知りたかった「世界の仕組み」は、遠くの大きな場所だけじゃなくて、自分が立っているシンクの前にもあったんだって、そのとき初めて思えた。
白紙のままでも出せた
それで、進路の紙はどうしたの?
結局、立派な夢は書けなかった。職業の欄は「まだ決めていない」。その下に、社会の仕組みを学べるところに行きたい、とだけ書いて出した。書いてみたら、あっけないくらい普通の一行だったよ。
でも、何週間も書けなかった一行なんだよね。
うん。漫画が答えをくれたわけじゃないんだ。白紙の欄を埋めてくれたわけでもない。ただ、白紙のままでも、今日の作業をしている自分を嫌わなくていい、と思わせてくれた。それで、ようやく一行が書けた。
立ち上がらせてくれたっていうより、座ったままでいいって言ってくれた感じだね。解读
ああ、その言い方のほうが正確だ。ナギに言われると、すっと腑に落ちる。
いまの小さな習慣
いまも読み返すの?
毎年、仕事始めの前の夜に、1巻の最初の話だけ読むことにしてる。全部は読まない。最初の話だけ。それで、今年の夢を考える前に、明日の最初の作業を一つだけ決めて寝るんだ。
それから、職場で若い人が進路や将来のことで迷っていたら、僕はアドバイスをする前に「今日は何の作業をした?」って聞くようにしてる。偉そうなことは言えないからね。白紙の紙を何週間も眺めてた人間だから。
それ、聞かれたらちょっとうれしいかも。
大きな夢が書けない夜は、今日やった作業を一行だけ書いてみる。それでも、たぶん十分です。夢の欄と今日の欄は、同じ一枚の紙の上にあるのだから。解读
持ち帰るしおり:夢の欄が白紙の夜は今日の作業を一行だけ書いてみる。白紙のままの自分を急いで嫌わなくていい。