インターホンが鳴る前に、ドアの向こうで大きな声がした。ミサは鏡の前でイヤリングを一つだけ付けて、玄関へ向かう。
母さん、鍋、返しに来た! 洗ってある!
インターホンを押してから叫びなさい。順番が逆なのよ。……で、ちゃんと拭いてある?
拭いてある。たぶん。
ミサは鍋のふちを指でなぞり、何も言わずに布巾でもう一度拭いた。それから、昼ごはんの準備にかかる。ハルは靴を脱ぎながら、紙袋から漫画の単行本を一冊出した。
母さん、今日の気分は?
何よ、急に。
勧める前に聞くことにしてるんだ。気分に合わないものを勧めると、作品がかわいそうだから。
……厳しい日。生徒の振りが三人そろって半拍遅れた日の、次の日。
じゃあちょうどいい。これ。ハイキュー!!。背の低い子が、高く跳ぶ話。
『ハイキュー!!』は古舘春一の漫画で、2012年から2020年まで『週刊少年ジャンプ』(集英社)で連載された。単行本は全45巻。[1]
スポーツ漫画ね。あなた、中学のときもそればっかりだった。……で、私には何を観てほしいの。
一巻だけ。いや、アニメなら一話だけでいい。跳ぶ前の、膝の曲げ方を見てほしいんだ。母さんならたぶん、僕より先に何か気づく。
ミサの包丁の音が、一瞬だけ止まった。ハルがミサの目を頼るのは、めずらしい。
いいわよ。そのかわり、あなたも一話観なさい。ロングバケーション。
またそれ! 母さん、それ何回目?
数えてないわよ。数えるようなものじゃないの。
『ロングバケーション』は、フジテレビ系列の月曜21時台、いわゆる月9で、1996年4月から6月まで放送されたテレビドラマ。脚本を書いたのは北川悦吏子で、木村拓哉や山口智子らが出演した。オープニングに流れたのは、久保田利伸 with Naomi Campbellの「LA・LA・LA LOVE SONG」。第1話で、葉山南は結婚式の当日に婚約者に逃げられてしまう。南は落ち目のモデル。一緒に暮らすはめになる相手は、婚約者と部屋をシェアしていた瀬名秀俊という冴えないピアニストだ。[2]
前にも聞いたけど、それ、恋愛の話でしょ。僕、恋愛のやつは途中で筋トレしたくなる。
恋愛の話よ。でも、それだけじゃないの。うまくいかない二人が、うまくいかないまま同じ部屋で暮らす話。あなた、ピアノの人の背中を見なさい。自信がない人は、背中で分かるのよ。
また背中だ。
背中は嘘をつかないの。あなたも今、丸い。
ハルは言われる前から背筋を伸ばしかけて、伸ばしきれずに笑った。昼ごはんは、鮭と卵焼きと、ハルの好きな具の多い味噌汁だった。
いただきます、は?
いただきます! ……母さんの卵焼き、なんで毎回ちょうど同じ厚さなの。
毎回同じ回数だけ巻いてるからよ。同じ準備をしたら、同じものができるの。振付と同じ。
僕は毎回ちがう厚さになる。
知ってる。あなた、小さいころからそう。ベッドの上で跳ねるときも、毎回ちがう高さで跳んでた。止めても止めても、次はもっと高く跳ぶの。
覚えてないよ、そんなの。
私は覚えてるわよ。ちゃんと見てたから。
ハルは味噌汁のお椀で顔を半分隠した。ミサは何事もなかったように、鮭の骨を一本ずつ取っている。
じゃあ、今度は僕が聞く。母さん、今日の気分、厳しい日のままで変わってない?
……さっきよりは、少しやわらかい日。卵焼きが上手に巻けたから。
それなら、ロングバケーションでもいいや。やわらかい日なら、恋愛のやつでも途中で筋トレしないかもしれない。
しないかもしれない、じゃなくて、しないのよ。座って観なさい。背筋を伸ばして。
先に観たのはミサのほうだった。ハイキュー!!のアニメの第1話。ミサはソファに浅く腰かけ、背筋を伸ばしたまま、一度も背もたれに寄りかからなかった。
止めて。……今のところ、もう一回。
どこ?
跳ぶ前。ダンスでも同じよ。跳ぶ高さは、跳ぶ前の一拍で決まるの。この絵を描いた人は、人の体をよく見てるわ。
……ほら、やっぱり僕より先に気づいた。
で、この子は、準備してるの? 跳ぶための。
それは観て。言わない。
……生意気。
母さんのほうは? ロングバケーションで、いちばん好きな回。
言わないわよ。言ったら、あなたそこだけ観るでしょう。最初から観なさい。順番には意味があるの。
母さんも言わないんじゃん。
親子だもの。
次はハルの番だった。ロングバケーションの第1話。オープニングが流れたとたん、ミサが小さく肩を揺らした。リズムを取っているのか、思い出し笑いなのか、ハルには分からなかった。
この曲、知ってる。どこかのお店でよく流れてる。
流れてるわよ。いい曲は、ずっとどこかで流れてるの。
このモデルの人、結婚式の日にあんなことになったのに、ずっと元気だね。
元気なふりができる人は、強いのよ。ふりをやめる場所があれば、もっと強いの。
このピアノの人、たしかになんか自信なさそう。
でしょう。
でも僕は、自信のないままの背中のほうが好きかも。まだ何も決まってない人の背中って感じがする。決まってない人のほうが、どこにでも行けるから。
……それは違うわよ。丸い背中は、直すものなの。
直す前の背中も、ちょっとは見てていいでしょ。
ミサは何か言い返そうとして、やめた。テレビの中の部屋では、うまくいかない二人が、うまくいかないまま同じ食卓についていた。
それでさ、母さん。来月、社会人のバレーのチームに体験で行ってみる。会社の近くの体育館で、週一回。
で、準備は?
言うと思った。シューズは買った。膝のサポーターも。あと、跳ぶ前の一拍の話は、今日もらった。
……そう。体験って、見学はできるの?
来るの? 体験だよ? 試合じゃないよ?
行くなんて言ってないわよ。聞いただけ。
帰り際、ハルは玄関で靴ひもを結びながら、ハイキュー!!の一巻を靴箱の上に置いていった。ミサはそれを見なかったふりをして、鍋を棚にしまった。
その夜、ミサはソファで一巻を開いた。最初のページでは背筋を伸ばしていた。十ページ目で、背もたれに寄りかかった。気づいて座り直し、二十ページ目で、また寄りかかった。
夜の十時すぎ、ハルのスマホに一行だけ届いた。三話まで観た。跳ぶ前の膝、あなたより深いわよ。続けて、もう一行。で、体験は何曜日?
ハルは少し考えて、水曜、とだけ返した。来なくていいよ、と打ちかけて、消した。