重い扉を開けると、低いベースの音が先に体に届いた。壁一面のレコード棚。カウンターの奥でマスターが、針を落としたばかりの盤を見守っている。イロハは一歩入ったところで立ち止まり、目を閉じた。
イロハさん、入口で止まると、後ろの人が困るよ。
ごめんなさい。いまのベース、床の木から上がってきたの。足の裏から、濃い茶色の音がした。
二人はカウンターの端に並んで座った。ガクはハイボールを一杯、イロハは店のおすすめの柑橘のカクテルを一杯。マスターは注文を受けると、またレコードのほうへ戻っていった。
この前の話の続きをしよう。BLUE GIANTの映画、観たんだよね。
観た。二回。一回目は、サックスの音が鳴るたびに、肋骨の内側が熱くなった。二回目は、熱くなる前に、ピアノの人の指を見てた。
石塚真一がジャズを題材に描いた漫画が『BLUE GIANT』だ。連載誌は小学館の『ビッグコミック』で、期間は2013年から2016年まで。映画の公開日は2023年2月17日で、上映時間は120分。監督は立川譲、アニメーション制作はNUTで、音楽は上原ひろみが手がけた。[1]
僕はね、観終わったあと、ずっと考えてたんだ。ああいう小さな店で演奏する人たちは、一晩でいくらもらって、どうやって次の月の家賃を払うんだろうって。
……え、そこ?
そこ。食堂でたとえると分かりやすい。おいしい定食を出す店ほど、仕込みに時間がかかって、儲けは薄い。音楽も、たぶん同じだ。一曲の裏に、仕込みの時間が何年もある。その仕組みの中で、それでも鳴らそうとする人の話として、僕はあの映画を観た。
私は、音そのものの話として観た。ガクさんは、音が鳴るまでの町の話として観た。同じ映画なのに、大きさが違う。
大きさ。いい言い方だね。僕のは引きの画面で、イロハさんのは寄りの画面だ。
寄りすぎて、ときどき自分の心臓の音しか聞こえなくなる。
心臓の音が聞こえるのは、いい観方だと思うよ。僕はむしろ、自分の心臓の音を聞かないようにして観てしまう。昔からそうなんだ。たとえば、ジャズの店がどういう町に生まれて、どういう客が通って、どういう事情で閉まっていったか。そういう話を考えはじめると、目の前の一曲が、何十年分の町の歴史の中の一点に見えてきて――
ガクの話は、そこから三分ほど続いた。イロハは途中で一度だけうなずき、あとはカクテルの表面に映る照明の揺れを眺めていた。
――と、こういうふうに、すぐ長くなる。ごめん。
いいの。ガクさんが長くなるとき、声が一段低くなって、テンポが少し速くなる。それを聴いてるの、けっこう好き。中身は半分くらいしか入ってこないけど。
半分も入っていれば、上出来だよ。
マスターがレコードを替えた。ピアノのトリオ。イロハはグラスを持ったまま、少しだけ首を右に傾けた。音が来る方向に、耳を向けるときの癖だった。
このピアノ、角がまるい。映画のピアノは、角が立ってた。立ってるのに、痛くなかった。あれは、どうやって録ったんだろう。
それは僕には分からない。分からないことは、分からないと言っておくよ。
ガクさんのそういうところ、好き。分からない、のあとに、仕組みの話を足さないところ。
……いや、本当は足したかった。我慢したんだ。
イロハが笑った。ガクはハイボールを一口飲んで、自分の好きなほうの話に移った。
僕の作品の話も聞いてくれるかな。攻殻機動隊のSTAND ALONE COMPLEX。テレビでやったシリーズのほう。
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』は、士郎正宗の原作をもとに作られたテレビアニメ。全26話で、2002年10月から2003年11月にかけて放送された。神山健治が監督とシリーズ構成を兼ね、Production I.Gがアニメーション制作を、菅野よう子が音楽を担当した。オープニングテーマ「inner universe」も作曲・編曲は菅野よう子で、歌ったのはOrigaだった。[2]
知ってる。オープニングの曲だけ、何回も聴いた。言葉の意味は分からないのに、声が冷たい水みたいに背骨を下りていくの。本編は、まだ途中。
僕はあの作品を、制度の話として観てる。一人ひとりは独立して動いているのに、気づいたら同じ方向を向いている。誰が命令したわけでもないのにね。町内会の回覧板みたいなものだ、と言ったら笑われるかな。
笑わない。でも、また大きさが違う。私は、あの青っぽい画面の中で、夜の街の場面になると、遠くの車の音だけ妙にあったかく聞こえるのが気になってる。
遠くの車の音。……それは、僕は一度も聞いてなかった。
聞こえてたはず。ガクさんの耳には、たぶん全部届いてる。届いたあと、町の大きさに広げちゃうから、車の音が小さくなるだけ。
ガクは何か言いかけて、やめた。グラスの氷が、からん、と鳴った。イロハはその音にも、少しだけ首を傾けた。
イロハさん、一つ提案がある。次は、お互いの大きさで観てみないか。僕は寄りで。君は引きで。
私が、町の大きさで観るの? できるかな。
できなくていい。できなかった、という感想も、ちゃんと一つの感想だ。僕のほうも、遠くの車の音が聞こえるかどうか、自信がない。
じゃあ、決まり。BLUE GIANTの三回目は、引きで観る。お客さんが何人いるか、数えてみる。
僕は、攻殻の夜の街の場面で、目をつぶって聴いてみるよ。説明は、しないように気をつける。
説明したくなったら、ここに来て、マスターに聞いてもらって。私じゃなくて。
……それは、ひどくないかな。
マスターが、聞こえていないふりをして、レコードの溝に針を落とし直した。二人とも、一杯目のグラスを空にしたところで、二杯目は頼まなかった。
十時半。重い扉を押して外に出ると、駅前の雑踏の音が一気に押し寄せた。ガクは時計を見て、終電までの本数を頭の中で数えている。イロハは、扉が閉まる直前に漏れてきた最後のベースの一音を、足の裏で受け止めた。
いまの、濃い茶色だった。
僕には、店の看板の明かりが、少し暗くなった音に聞こえたよ。……いや、それは音じゃないな。
ううん。それも、ガクさんの大きさの音。
駅までの道を、二人は少し離れて歩いた。ガクは町の明かりを数え、イロハは足音の数を数えていた。数えているものは違っても、歩く速さだけは、最後まで同じだった。